第4話:やわらかき心

西川玄苔老師

さる昭和60年9月15日のNHK教育テレビ『心の時代』で、東京・聖路加看護大学の日野原重明学長は、徳富蘆花が50歳になった時の随筆に『人の寿命を百歳とするなら、自分は人生の峠へ来たわけだが、普通なら山道の峠へ登れば、それより下り坂であろうが、人生は峠を越えても、山また山で、終焉まで山坂道を登っていかねばならぬ』と言う文を書いていることを話されていた。

さすが文豪、人生をうまくいい当てたものだと感じた。仏教では、この世を娑婆界(しゃばかい)という。娑婆とは、サーハと言う梵語を音訳したものであるが、訳せば忍土(にんど)ということ。だからこの娑婆界に生を受ければ、とにかく、いろいろなことに耐え忍んで世渡りをしていかねばならない、と教えられている。

憂い目、つらい目、痛い目、悲しい目、悔しい目、寂しい目、とんだ目、思いもよらぬ目、たまには楽しい目や嬉しい目もあるだろうが、種々さまざまな目に遭遇して、耐え忍んで生きていかねばならない。

このようにして、人としての樹木の芽も生じ、やがて花も咲き、実も結び、一人前となって繁る大樹となっていく。

人間として出来たと言われるお方は、いかなる目に遭っても、グーッと耐え忍んで『八風吹けども動ぜず天辺の月』という不動心の練磨された人のことであろう。
釈尊のことを、寂黙能忍(じゃくもくのうにん)という。婆羅門の難で90日間、馬麦を召し上がられた時も、提婆(だいば、お釈迦様の従兄弟の名前)が殺そうとした時も、釈迦族がコーサラ族に滅ぼされた時も、黙って静かに忍んでおられた。

釈尊の最後の経典の中には、『忍の徳は、いかに戒法をよく守り、どんな苦行を修することよりも優れている』と説かれている。

道元禅師が中国に行かれ、天童山の如浄禅師から、『仏様の御精神は柔軟心(にゅうなんしん)といって、やわらかき忍の徳の心である』ということをお聞きになり帰国された。

それなのに現今の人々の吐く言葉の中に、カーッときた、頭にきた、ばかったれ、こん畜生、死にやぁがれ等など、まことに粗悪な暴言を聞く。

今世紀初頭の思想家カフカが『人間のもつ大罪は"せっかち"である』と言っている。初めてこの語に接した時、理解しかねたが、6年前に私は交通事故に遭遇した。それは猛烈なスピードで走って来た車にはねられた時、このカフカの言葉を身を持って読んだ。それから現代社会の事故・災難・病気等の諸現象が"せっかち"を原因に起こっていることに気付いた。

地球は狭くなり、世界の人々は頻繁に往来し、人間社会は、ますますスピード化して転回して行く。いよいよもって、あちらでカーッ、こちらでカーッ。家庭内暴力、学校内暴力、社会暴力、国家暴力等と激増していく。

これでは、人間失格を通り越して人類滅亡へと、ひた走るだけだ。新幹線を縦横に走らせたり、ジャンボ航空機を地球の空いっぱいに飛ばすことより、どうしたら"やわらかき心"を取り戻すことが出来るかに取組むことが急務ではないだろうか。

道元禅師は、手を組み、足を組み、背骨を真っ直ぐに伸ばし、呼吸を整えて坐る(坐禅)。たちどころに"やわらかき心"になるといわれた。わが恩師、沢木興道老師は『坐禅は、のぼせを下げる』と教えて下さった。

人生の幾山川を越えて行くに、この"やわらかき心"を維持して歩んでいくことは、自らの幸いであると共に、他の者へ幸いを与える人となる。ひいては世界人類の幸いへと、その輪は転じていくであろう。




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