はじめに〜先生のご紹介〜

白井成允先生

白井成允(しらいしげのぶ)先生のことは、コラムで度々ご紹介して参りましたが、私が尊敬する井上善右衛門先生と西川玄苔先生が共に恩師と仰がれる方であり、私は多分一度もお会いしてはいませんが、非常に親しみと尊敬の念を抱かせて頂いている先師であります。多分と申しましたのは、昭和28年9月28日、私が8才の時に、母の主宰する仏教講演会『垂水見真会』にご出講頂いているからであります。

井上先生からも西川先生からも、白井先生は阿弥陀様のようなお方だとお聞きしておりますが、お写真からもそのご人格が窺えます。しかし、先生の歩まれた人生は決して平坦なものではないことは、末尾のご年譜から窺えるものと存じます。

井上善右衛門先生が白井先生を偲ばれて語られたテープ、そして追悼文がございます。追悼文は、近々井上善右衛門先生の法話集の中に掲載させて頂きます。

白井先生は、多くの歌を残されていますが、昭和22年には、『あけぼの』と言う勅題に応募され、選歌されたことは、文学者のご両親から受け継がれたご才能によるものであろうと思われますが、私は次の歌と詩が印象強く思い浮かびます。

吾妹子(わぎもこ)が縫ひし新衣(にいぎぬ)けふきそめ皐月若葉の朔(あさ)をゆくなり

注]吾妹子(わぎもこ)とは、奥様のことです

―招喚の声―

業風吹いて止まざれども
唯聞く弥陀招喚の声
声は西方より来りて
身をめぐり髄に徹る
慶ばしきかな
身は娑婆にありつつも
既に浄土の光耀を蒙る
あはれあはれ十方の同胞
同じく声を聞いて
皆倶に一処に会せん
       南無阿弥陀佛

白井成允先生の年譜

明治21年(00歳):2月6日東京本郷金助町にて生まれる。
明治31年(10歳):4月8日母が31歳で急逝。
明治35年(14歳):盛岡中学に入学(父親が盛岡師範学校に赴任に伴う)
明治42年(21歳):東京大学哲学科入学
大正02年(25歳):東大卒業、副手として研究室に残り、島地大等師に師事。
大正08年(31歳):名古屋愛知医学専門学校の教授。倫理学とドイツ語担当。小田島敦子と結婚。
大正10年(33歳):母校第二高等学校の教授となり、仙台へ。
昭和02年(39歳):京城帝国大学教授
昭和04年(41歳):ドイツ留学(2年間)
昭和07年(44歳):法隆寺参籠、佐伯定胤師より「成唯識論」を学ぶ。
昭和14年(51歳):夫人逝去
昭和15年(52歳):広島文理大学教授
昭和19年(56歳):花房フミを後妻に迎える
昭和20年(57歳):原爆の惨禍に遭い、家族を探し求めて数日廃墟をさ迷う。広島大学学生部長。
昭和23年(60歳):ご長男(東大大学院在学中に召集される)シベリア抑留中に死去。
昭和28年(65歳):広島大学定年退官。名誉教授。
昭和35年(72歳):月刊誌「自照」の編集発行責任者
昭和48年(85歳):京都府立医大にて死去(8月25日)盛岡の願教寺内の白井家のお墓に埋葬。



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