信仰と生活

白井成允先生

歎異抄に「よきこともあしきことも業報にさしまかせてひとへに本願をたのみまいらすればこそ他力にてさふらへ」というお言葉があります。そのお言葉が、何か私共念仏させていただいております者にとって、私共の生活全体を想定して下さって、念仏の信心に生きる者がどういう心持でおるべきか、その事どもを非常によくいいあらわしていて下さると思われるのであります。

善き事、悪しき事という善悪の問題は、私共生きている間はなれる事の出来ぬ根本の問題でありましょう。人間のみならず、すべて生命あるものことごとく自分の法則に従って生きているのであって、桜の花は桜の花自身の法則に従って開いたり散ったりする。松の木は松の木自身の法則によって常に緑である。そういう風に法則に従って生きる存在というものは自然界のあらゆるものがそうであるのですが、ただ、人間のみそれを自覚するのでありましょう。

人間は人間としての法則に従って生きながら、それを自覚するというところに、他の物と区別され人間特有の生活があるのであります。人間は法則に従い命を保っているということを知っている。ここに善悪ということも問題になってくるのであります。人間は己を自覚して生きるところに、善はなすべきであり、悪は離るべきであるということは、われわれが人の生命を本当に考えてゆく時に当然おこってくる問題なのであります。私共が人間の生きる意味を思わず善悪を考えない、そういうことであれば浄土真宗という事も本当に自己の問題となりえないのでありましょう。

歎異抄において、罪悪深重煩悩熾盛の凡夫を救うのであるという、そういう教えであると共に、そのことが、非常に深く善悪の問題に連関しているのであるということも深く反省しなければなりません。弥陀の本願が悪人正機であるという、その悪人正機とは如何なることであるか、もし道徳を無視し軽んずる傾向がこの教えの中で起ってくるとすれば、それは恐らくこの教えの真実の面目を傷付けることになるでありましょう。

一体、善きことをなし、悪しきことを止めるという、これは釈尊の始めからの教えであって、仏の教を聴く上に、根本的に心得おくべきことでありましょうし、私共人間として生きて行く上にも、根本的に自覚せられるべきことであります。いかにして善を行い、いかにして悪を止めるべきであるか、それを真実に身を以て解決してゆくところに、菩提心というものが根ざしてくるのであります。ですから悪人正機というも、その中に根本に潜んでいる道徳的要求が無視されているとするならばそれは仏教ではないでありましょう。

しかしながら、私共善きことを行い悪しき事をやめようとする。そういう願いを起こすということが、それが甚だしく困難であることに当面せざるを得ないのであります。たとえば何が一体善であり、何が悪であるか。具体的には非常に難しい問題をはらんでいるでありましょう。しかし根本的には何をなすにも真面目でなければいけないということは、如何なる場合、いかなる人にも、すべて通ずる道徳的要求であるといってよいのであります。汝真面目になれ、ごまかしてはいけないという、それは昔からの東西の聖賢の方々が、道徳的要求を明らかにされている教えの中には、どなたでも根本に言っておられる問題であります。

ところでこの私共、この真面目という事を自分に要求したらどうなるでありましょうか。ある仕事をするに真面目にしなければならないということを自分に要求したら、自分はこの要求にたえうるであろうか。友と交わって自分が友の為に尽くしていると思っている間はいいけれども、何かその内に事が行き詰まって、自分が友人に対し徹底して親切にすることができないということに気付いてくる。

あるいは時に気付いて、父母を少しは安らわせてあげましょうという心がおこっても、すぐに親不幸な自分というものが出てくる。一つ真面目に仏教の話をきこうとしても、二時間、三時間位続くと途中で疲れて、雑念が起ったり眠くなってしまう。そうして今日も真面目に過ごす事が出来ないでしまったという残念な心持で別れてゆく。

凡そ私共人間と言う者の姿がそうなのであります。ともかく、ある一つの道徳的要求が起ると、その道徳的要求が自分によって覆されてしまう。要求が深くなればなるほど、それと矛盾した自分の現実の姿が暴露されてくるのであります。そこに善をなすべし、悪は止むべしといわれても、善をなすことは出来ぬ。善もなしがたく悪も止め難い自分であることが、教えによって明らかになってくるのであります。ここに、本当の道徳というもののいかなる性質であるかという問題が自覚されてくるのでありましょう。

諸善奉行    諸悪莫作
自浄其意    是諸佛教
「もろもろの善を行い、もろもろの悪をなすことなく、生涯自ら己の心を浄めるという。」これが仏教の根本になっておりますが、今申しました如く、真面目になろうとすれば真面目になりえない自分というものが表れてきて、しかし同時にどうにか真面目にならなければいけないという心持が続いている。そこに一種矛盾した心が動いてまいります。しかしその矛盾というものがはっきり気付かされるのは、自分では気が付き得ないのであって、これは師匠の教えによって気付かせていただくようであります。私もかつてその問題を師匠(近角常観師)の前に告白いたしましたが、ひどく叱られてしまったのです。

「君は一体長い間私の話を何ときいていたのか。真面目になれば信心がいただけるとか、真面目になって仏のお慈悲をきかなければいけないとか、いつそんなことを私がいったのか。仏さまのお慈悲は真面目になってこいというのではなくて、真面目になれぬ汝であるということを見抜いて下さるのである。煩悩熾盛、罪悪深重、いろいろの煩悩がつねに起ってき、そこからいろいろの罪業が表れてくる、その汝の命の有り方、汝の心の動きを仏様はよく知っておられる。仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫とよんでおられる。不真面目でしかありえないのが汝の本性であるから、その汝が可哀想でたまらない。その汝を必ず救わずにはおかないのが仏の本願である」と。

こう師匠から繰り返しいわれいる内に私が気付かせていただいたことは、今まで真面目になろうとしたことが、身の程しらぬ心持であつたということでした。こちらが真面目になって仏をつかもうとするのではない。真面目になりきれぬ私を、ご心配になっていられる仏の御願いを聞かせていただくのでありました。

ー続くー




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