無心と生活の矛盾

鈴木大拙師

この矛盾が一生の悲劇である。個人の関係、国際の関係、人間と自然の関係、どの点から見ても、この矛盾から発生して来ないものはないのである。元来人間はこの悩みを受けなければならんように出来ていると言ってよいのである。人生は悲劇のほかの何ものでもないのである。風の世界、火の世界にはこういう矛盾はない。したがって悲劇もなく喜劇もない。動物の場合にもまた然りで虎が人間を食べてしまってそうしてうまかったと舌うちをする、虎はそこになんらの矛盾を感じない。ちょうどわれらが何かうまいご馳走でも食べたような訳で、その食べて満足したところにおいては、なんらの矛盾を感じていないのである。

ところが単に食べ物という点においても人間はある一種の悩みをもっているのである。それは何かというに、菜食論者の方からみれば、生きた動物を殺して、そうしてそれをもって自分の栄養を摂らなければならぬことはいかにも残酷なことだ。人間は生物を殺さないで生活してゆける法はないか。菜食をするというが、菜食もある意味でいえば一種の生物であるから、動物を食べるということと同じ意味において植物を食べてならぬことになりはしないか。植物は動物のように高く組織化していない、有機化していない、またある一種の意識を持たない、というので、われらが生きてゆかなければならぬとすれば、植物で生きてゆくという方が最も人道的であると、こういう風にも言う人がある。しかしそうではなくして単に菜食の方がわれらの身体を維持してゆき、また精紳力を発揮する点において、動物食をするよりも良い率があがると、こう言って菜食をする人もある。

それからまた経済の方面、社会的経済の方面から見ると、また次のようなことが考えられる。われらはまずいうまいと考えてものを食べているが、このうまいものを取り集めるために、どのくらいの多くの人の手を煩わしたかわからぬ。そうしてわれらのためにそんなにしてくれた人々は、何を食べているかといえば、いわゆるまずいというところのものを多く食べている。われらがどうしてそんなに良いものを食べて、他の人に悪いものを食べさせる権利があるか。人の労苦を自分がいい気になって受けて、そうしてこの体を育ててゆくというようなことは、何だかあってはならぬようなことと思われる。単にそういう一種の倫理観でなくして、経済の方面から見ても、どうも社会の消費と生産の方面においてなんらかの欠陥があるから、今日のような紛争つづきのことになるのではなかろうか。そういう方面からも、食物というような何でもないことのようであっても、また問題が頗る複雑になってくる。

それからまた宗教的にみると、次のようなこともある。われらは自分が金というものを出して、特にそれが自分で儲けもしない金であるが、それを出してそうして食物を買い込んで、そうして調理する人を頼んで調理してもらって、そうしてそれでうまいとか、まずいとか、下手だとか上手だとか言って、生きてゆくが、果たしてわれらにはそういうことをすべきか、言うべきか、また権利というか、功徳というか、そんなものがどうしてわれらはもっているのであろうか。それのみか、ただこうして生きていることすら、何だかもったいないような気がしてならない。

まして多くの人を使って、この体を養うために、食物をつくってもらわなければならぬというようなことは、何だかすべからざること、してはならぬことをしているような気がして、しょうがないということになるのである。これではどうも罰が当たる。こういうことをさしていては、済まないというような感じをもって、食物に対してもまた着物類などに対しても、また外の事についても、宗教的に非常に関心をもっている人々も、世間にはなかなか多いのです。

こういう具合にみると、どうも赤児時代の天真爛漫、動物形態の虎や狼的生活、そうした段階を離れてくるほど人間らしくなって来て、そこに子供時代や動物では味わわれない一種の価値をもった世界が展開するように思われる。果たしてそうだとすると、無心の世界に帰れということは、いかにも矛盾で、後すさりすることのように思われてならない。しかし、上述のようなことを言うものの、またわれらは何となく一種の無心と名付けていいような世界に対して、憧れをやめる訳にはゆかないものがある。

この世界の生活と、あの無心の生活とは、どうも矛盾しているように思われてならぬ。ところがこの世界の生活というもの中においても、また非常な矛盾が蔵されているのである。矛盾があるというよりも、むしろわれらは矛盾そのものを土台として、この生活が出来ていると言ってよい。それだけでも沢山のところへ、今また新たな矛盾の世界を、考えたか、拵えたか分からぬが、そうしたものを向うにおいて、たださえ悩みにたえないところへ、またいっそうの悩みを加えるということにもなるのである。

ただ実際のところは、この世の中の生活の底に潜在している矛盾がーーつまりこの無心に対しての矛盾、これが根本の矛盾となって、それからあらゆる矛盾が出て来ているのであると言ってもよいのである。つまり本能と無心の矛盾と、あるいは本能の中に存している無心を、この人間のうちの世界へ持って来てどのくらいに働かし得るか、働かねばならぬという、その矛盾のところにわれらの精神生活の進み行く道があるように思われる。

次回の"人間的無心と天地の心"へ続く




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