無心の体験

鈴木大拙師

―無心の掴み方―
無心ということは、よく平生われらの使う言葉であるが、ほんとうの意味においては、なかなか掴みにくい。平生お互いが話している時は、わかったようでもあるが、それならその無心の本体を掴むということになると、容易でない。それはわれらのいわゆる心というものにはいろいろの層がある。自覚しているところは上層だけであって、その下にどういうものがあるか容易にわからぬ。科学者はその下層にあるものを分析してその本質を明らかにしようと努めている。ある程度までは成功したようにもみえる。

しかし宗教の世界は科学の世界とはまた別の世界であって、必ずしも科学者の手が届くとは限っていない。科学者はもちろんその手の届く限りにおいて事実を確かめ、理論を組み立てるのであるが、どうも宗教の世界は科学の研究の範囲外にあるようだ。範囲外にあるという意味は、科学の頼りにしている自然科学的方法論では宗教の本体が掴めないという意味である。そうしてこの無心は宗教の世界―科学の方法では手の届かない世界のことなのである。

何でもわかったようにその言葉を使うが、その意味、その本体をはっきり掴もうという時には、どうしても科学的分析以外の方法に進まなければならぬことになるのだ。それは科学が心の最下層に手を届かしても、さて届かす方法は心の上層における諸々の現象を取り扱うと同じ方法なのである。それゆえその方法の届かないところでは何かまた別の方法がなくてはならぬのである。その別の方法によって初めて無心の体験が出来ると思う。しかし体験が出来てもただそれだけでは役に立たぬのでその体験に働きが出なくてはならぬ。つまり何か言葉で現わさねばならぬのだ。何か人のために、人に向かって、あるいはまたある意味においては自分に向かって、話しすることの出来るものがなくてはならないのです。そこにむつかしいところがあるのだ。

―無心と心意識との関係ー
心の上層には先ず第一に五官がある。それは色声香味触の世界を把握する。これを仏教では五識という。この五識の世界を統括するのを、仏教の用語で"意識"という。この意識は普通今日の心理学者の使う意識と字は同じであるが、意味は必ずしも同じでないのである。とにかくここでは仏教の用語に従うことにしておいて、さてその意識が五識すなわち五官を統括して、それを自分の経験として考えている。

その自分とは何かと言うに、意識のもう一つ下に末那識(まなしき)というものがある。意識はこの末那識を内に顧みつつ、五識を外に纏めて、そうしてここに自分、すなわち「我」という識を立てるのである。この我は無意識と有意識の両方にまたがっているが、われらはこの我識なるものを大抵有意識と考えて、その我識に深くとりついている。

我識というのは、それは我執のまたの名にすぎぬ。大抵の場合に、我識すなわち我執と言ってよい。ところがこの我執なるものの奥にはわれらの自覚しないところの種々雑多の念が働いている。この念の始まりは無始である。これを仏教では、無始劫来の無明という。我執の根はこの無明から生えているのである。そうしてこの無明はなかなか手の届かぬところにある。無始というから手の届かぬところにあるのも不思議ではなかろう。

それゆえわれらのいわゆる心というものは、はっきりと自覚出来る面もあるが、また全く自覚のできない面もある。そうしてこの無自覚面の方が、空間的にいえば、自覚面よりもずうっと広いといってよろしい。あるいは深いといってよろしい。この深い広い無自覚面、あるいは無自覚層といってよいが、そこからいわゆる百鬼夜行的にいろんなものが自覚面へ飛び出す。飛び出したところで初めて気がつくが、その先はどこからどうして来たものか全く分からぬ。これを妄想と仏教では言う。つまり妄想は一面は自覚的であるが、他の一面は全く無自覚性を帯びている。

それで我執は妄想の一つであるが、そうして仏教はこの我執を棄てなければならぬというが、しかし一面からみれば、我執もやはり何かの意味をもっていることになる。ただむやみに我執を棄てよと言っても、なかなかそうはゆかぬ。無自覚の中から出て来る我執、無自覚のところに根をさげている末那識、これをはっきり見なくてはならぬ。

つまり末那識の本体を掴まなくてはならぬ。この末那識は無自覚性のいわゆる阿頼耶識なるものを捉えて自我と認識しているのである。阿頼耶識は無始劫来の無明の巣窟であるから、これは何とも手のつけようがない。阿頼耶識そのものは、自覚性をもたぬのであるから、手のつけようがないのである。ただし、この阿頼耶識の本質というものは、末那識を通して掴むことができるのである。これが無心への手懸りなのである。

―無心の無自覚性―
ところが、この末那識は先に言ったように自覚性と無自覚性との両面を備えているので、一面は五官の世界に連なり、一面は阿頼耶識の無の世界に没入しているので、われらの心生活の中枢をなすものである。無自覚のところは無自覚で仕方ないが、幸いにしてこの無自覚が直ちに自覚面に繋がっているので、自覚面の転回において無自覚面の転回がまた行われる。そうするとわれらの心の世界に大転回を起こすことにするには、どうしても意識の力によらなくてはならぬということになる。他の言葉でいうならこういう具合になる。すなわち有意識と無意識との関係は、楯の表裏、垣の内外というか、楯なり垣なりは内外表裏の両面を具えているので、その物の話をするときには、どうしてもその両面以外に出るわけに行かぬのである。

その意味で、有意識は直ちに無意識であり、無意識はすなわち有意識であるともいえる。が、無意識はその定義においてすでに無意識なのであるから、この方からしては、何とも手のつけようがない。この方に手をつけようとすれば、有意識の面からでないといけないわけだ。それならどうして有意識の方から無意識へ働きかけて、それに変化あるいは転向を生じしめ得るかというに、それは意志の集注ということでできる。

心の無意識からいろいろの念や欲などというものが、涌き出るままにして、あえてこれに対して意志の統制を加えぬことにしておくと、何が何やら全くわからぬことになる。せっかく有意識面の発展したのにこれを活用し能わぬということは、人間としては残念なことでなければならぬ。元来有意識面がもつ意味は「我」の成立ということであるが、この「我」が成立すると同時に、分別の世界が出来あがる。分別の世界とはこの差別の世界ということであるが、いったんこの世界が展開し出すと、善悪邪正真偽美醜などという価値の入り込みが紛糾して来る。

従って「我」執、「我」欲、「我」慢などと称えられる「我」の一列の系統が成り立つ。そこで心の有意識面なるものは二元論の大元締ということになり、これから広がり出る分別網はその究極を知り能わぬのである。それで分別を分別し批判してその標準の所帰を定めなくてはならぬ。それがいわゆる般若の智恵である。般若の知恵によりて、初めて、心の有意識面から無意識層へ貫く転回が可能となるのである。

―続く―




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