無心の体験ーA

鈴木大拙師

―般若の知恵―
般若の知恵は元来無意識層の根底から迸出するものであるが、末那識を通じて意識に現れると、分別になる。分別になっても、なおその本性であるところの無分別性をそっちのけにしない限り、般若はその本来清浄性を失わぬのである。すなわち無分別の分別、分別の無分別ということになるのである。 分別性の意識にももとより無分別性の般若が具わっているが、いったん分別という世界に足を踏み出すとこの分別によりて新たに無分別のもとの世界に意識しなくてはならぬことになる。

意識(マノヴィジュニャーナ)は、無意識面と有意識面との両面を有するごとく、その働きに無分別性と分別性との両性を見ることができる。転回はこのごとくして可能なのである。転回の前にあっては、分別「我」の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、般若の知恵が光り、分別「我」に無分別性があることが明らかにせられる。これを阿頼耶識の暗窟に一点の光明を添えると言う。いわゆる転依(てんえ)なるものすなわち是れ、或いは八識田中に一刀を下すとも言うのである。

八識(阿頼耶識)田中に一刀を下すことは、分別の無分別性を認めること、般若の知恵の働き出ること、意志の集注がその極限を突破したことである。畢竟するに、「心を一処に制すれば事として弁ぜざるはなし」で、この一処に制するということは、意志の集注、分別力の内向的飛躍、意識(マノヴィジュニャーナ)の還元的作用であるというべきである。

仏教の哲学者が、心の無意識層に、阿頼耶すなわち蔵識または無没識という名をつけて、その存在を人間の実生活の上に肯定したことは、まことに深き哲学的反省の結果といわなくてはならぬ。今少しくこの関係において阿頼耶識なるものを調べることにする。

―阿頼耶識と光明ー
この阿頼耶識というのは、ある意味では記憶である。無没識または蔵識というはこの義に外ならぬ。単に個人的記憶にとどまらず個人を超越したところのものさえ、その記憶はここに貯えられている。いわゆる総合的無意識といってもよい。この総合的無意識はわれらの自覚的心生活の基礎をなしているが、この記憶の源底をつくっておる総合的無意識が前に言ったごとく、ずっと上で自覚面に接しているので、この自覚面を通じて総合的無意識の世界に手をつけることが出来る。われらが阿頼耶識などというものを認めなくてはならぬということが、すなわちすでにそこへ手をつけたことになるのである。

ところで、この阿頼耶識にはもっと深い意味がある、単なる総合的無意識だけではない。総合的無意識というは、心理学者や哲学者の言い得る限りの意識世界であるが、宗教の方面ではこの無意識あるいは無自覚の世界の基底になお一条の光明のあるを見出すのである。そうしてこの光明をして直ちに意識を通じて五識の世界へ働き出さしめるのである。

光明というのは頗る非科学的な言葉と思われるが、宗教者はよくこの言葉を使う。そうして自分の体験の意味に説明を与えるのである。この光明によって、今までの無自覚な阿頼耶識が、また分別の世界に照り渡るのである。心理学者に言わすれば、総合的無意識が基になって、それから有意識の世界が展開するのである。

とにかくこの光明が意識を通じて五識の上に働いているのであるから、この光明をさえ捕え得るなら、今までの世界は全然その趣きを変えることになる。仏教でいえば、阿頼耶識の暗黒性が大円鏡智に転ずるのである。今までは「我」識の対象としていたものが、たとえそれが無自覚性をもっているにしても、今や一転して、「我」は「我」として認めない訳にはゆかぬが、その「我」が光明をもった「我」になるのである。ここにわれらが五識や意識に囚われた世界とはまた別の世界の展開を見る訳である。

それなら、この光明とはどこからどうして来たのかと、尋ねられるかも知れぬが、それは分からぬ。実を言うと、そういう問題を起こす必要はないのである。われらが光明のどこから来て、どこへどう去るというようなことを尋ねるのは、光明をまだ手に入れていない証拠なのである。光明と自分とを二つに分けて、自分以外に光明を認めんとしているのである。光明さえ拝み得たなら、その光明がどこへゆくか、何をどう照らすか、またどこから来たか、そういう問題は、分別が自分の性格に限定のあることを知らないで、提出するところのものである。光明そのものになったら、そんな問題は出ぬ。そんな問題の出るのは、光明を分別して、自分の外にそれを措いての話なのである。

―続く




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