持ったもの、失ったもの

常岡一郎

リンゴとみかんを両手で持つ。それを第三者が見る。その時感じることは、持っているということである。持った二つである。ところが、持ったがために失われるものもある。しかし、それには気付かない。

たとえば両手に水差しとコップを持つ。しかし、その二つを持っている限り、両手の自由は失われる。持っている間、他の一切のものとの縁は切れている。大切なのは自由自在の手の働きである。いろいろなものとの御縁である。自由自在の許しと縁の結びである。

両手にものを持っている限り、どんなに喉がかわいてもお茶も飲めない。美味しいお菓子をならべられても食べられない。おしぼりが置いてあっても顔もふけない。そこに何があってもどうすることも出来ない。一切のものとのつながりが絶たれる。御縁が結べない。これは掴んで持ったからである。

持ち方に二つの方法がある。一つは掴んで持つ。これは手で持つのである。もう一つは掴まないで持つ。これは大自然の許しで持つのである。われわれは鼻や耳や手や足を持っている。しかも70年使っても減らない。鼻の取り替えもいらない。耳の修繕もいらない。ほうりっ放しで眠る。汽車で寝ても盗まれない。とり替える人もいない。これは大自然に許されて持ったからである。つり合って持ったのである。持たされて持ったのである。

人間は何を持ってもよい。名誉も地位も、いくら高くなってもよい。値打ちがあったら、財も富もいくら持ってもよい。それと釣り合うだけの徳があったらなんでも持てる、だから徳をつむ。働きぬく。その徳分のゆり戻しで持つ。これが正しい生き方、正しいものの持ち方、幸せと縁のつながる持ち方である。掴んで持つ。これは不幸や災難と縁のつながる持ち方である。

いかに財産や物や権力があっても、過去につんだ徳分、よい縁、これがなければ不幸につながる。だから幸せと結ばれる御縁が何より尊い。物は惜しみなく人に与える。ただ御縁だけを持つ。このことが大切である。

巨億の金を持った人が私の近所にいる。その金に目をつけた青年がいた。その人の子供を誘拐した。近所の便所の中で殺した。誘拐は金ほしさである。ところがその人の金は、その子供を助ける力も縁もなかったわけである。

地獄の沙汰も金次第といわれる。子孫のために金、子供を守るのも金、こう考えやすい。しかし、この少年の場合は逆になっている。金がなかったら誘拐もされなかっただろう。殺されもしなかっただろう。結局、金がこの子の敵になっている。金があっても、財産があっても、徳のつんでいない財産、縁の無い金、これはなんの役にもたたない。




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