病は天からの手紙

常岡一郎

嬉しいことは大歓迎、嫌なことはお断り、これは人情の常である。たしかにお断りの出来るものもある。お断りの出来ないものもある。お断りの出来ないもの、それは老いである。病いである。死である。三千年の昔、お釈迦様は人間の一番悲しいなやみを、生老病死の四苦と説いておられる。生き抜いて行くことはたしかに辛い。老いることはまことにわびしい。病いは実に辛い。死ぬことは恐ろしい。悲しみの極みとなっている。

断れないもの、どうせお断りの出来ないものなら、なるべく来ることの遅かれと祈る他ない。老いと死とはどうしてもお断りは出来ない。しかし生き方や病いの方は、心の持ち方、考え方の立て直しでずいぶん苦しさ、辛さを減らすことが出来る。一生の大半を病床に苦しむ人もある。医者や薬の必要が絶えない家もある。しかも一方で、一生病いを知らぬ達者な人もある。ちょっと変だと言って横になって、そのまま死ぬ人もある。

同じ一生である。無病で働く。楽しく生きる。これはうらやましい。幸せな生き方である。たとえ病んでも、心の持ち方で楽しんでいる人がある。病いは天から頂いたお手紙である。手紙は破ることを急ぐべきではない。手紙は読むべし。読んで悟るべし。そうして天の忠告を謝すべきである。

私は幾千、幾万の病人と語ってきた。そうして病気はたしかに天のお手紙だと思っている。読んで成る程と頷(うなづ)けば、自らの誤りが分かる。それでこそ病いで失った損より、将来の幸せを築くよい縁となる。

病気がよくなる。九死に一生を得る。その人は泣いてよろこぶ。家族も涙で感謝する。お医者さんも嬉しいに違いない。しかしもし病人が死ぬ。泣いても泣ききれない。結局、病人が死んでもお医者さんは責任がない。するだけのことはしたで済む。しかし死んだ人はもう取り返しがつかない。病人自身が病いの全責任者である。お医者さんの責任で病気をしているわけではない。病人自身の責任である。自分で悟って育つの他ない。

病気をした時、医者にのみもたれる。医者に責任を負わせる。これが世の常である。医者は病気そのものを受け持つ。しかし、病んでいる一部分しか責任はもてない。病気をしている人、その全体は病む人自らの責任である。その病人の心のゆがみ、人生観の狂い、生活の乱れ、家庭のいざこざ、これに対して天からのお手紙が来たのである。手紙はもらう必要のある人に与えられる。手紙を貰うのが嫌なら、もらう必要のない人間になる他はない。

私は22歳、慶応大学の二年のときに、肺を病んだ。当時はよい薬がない。よい手術もない。肺病は不治の病いといわれていた。ことに若い人が肺を病めば、死んで行く人がほとんどであった。 病気は医者に任せる。しかし、病人である私、その私という人間のつくりかえは、自分の責任だと思った。病いをなおすのではない。病いで自分自身をなおすのである。自分がなおれば病気はなおさずともなおるものだ。病気のなおる方は急がず、自分がなおるのを油断なく見詰める。ゆるみなく努力する。これを基本とした。

自分と言うのは、結局自分自身の心である。心こそ自分自身である。その自分であるところの心、その心を基本として私の顔も姿も運命も、すべてが映し出されている。したがって、自分という心の状態だけをなおすことに努力をすればよいわけである。自分の心は自分では作れない。自分で出来るのは徳を積むことである。他人を喜ばすことである。そのためには自分は骨惜しみしないこと、出し惜しまず、なまけず、けちにならぬことである。全心全力を八方につくして奉仕に徹する生活をつみ重ねることだと信じた。その結果明るい、落ち着いた心が育って来る。その心の育つ姿をじっと見詰めて努力精進を楽しもう。こう決心した。だから病気の治り方の方は存外気にしなかった。そのかわり全快までには時がかかった。15年もかかってしまった。

常岡一郎師の略歴:
○ 明治32年福岡県生まれ、慶応大学理材科在学中、卒業前に結核にたおれ、学を捨て、闘病と求道に入る。
○ 昭和10年修養団体『中心社』を創設。養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、更に健康学園を創建。かねての持論である5健運動を推進。
○ 昭和25年、参議院議員に当選。12年間国政に参劃。
○ 昭和44年、勲二等瑞宝章を賜る。




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