生まれたままの心

山田無文老師

最近(昭和46年のお話)、小学校の教え子がかつての先生の奥さんを殺した事件がありました。その青年は子供の頃に父親がなくて、おかあさんが小学校の小使いさんをしていた。そのころの先生の一人が、その子を自分の家において世話をされたこともありました。

ところがその青年は、社会に出てから、なんども罪を重ねて刑務所のお世話になったこともありました。それが、むかしの先生の家を訪ね、その奥さんを殺したのです。そして捕らえられたその青年と取り調べ警官とがこんなやりとりをしました。
「ぼくは殺すつもりはなかった。殺しにいったのではない、盗みにいったのでもありません。」
「なぜナイフを持っておったのか」
「僕のふうていを見て、いつも不良やチンピラがけんかふっかけるので、自分の身を守るために持っていただけです」
「引き出しなどがちらかっておったのはどういうわけだ」
「強盗が殺したように見せかけるつもりで、あとから引き出しをかきまぜただけです。僕は先生の奥さんが懐かしくて、おかあさんを慕うような気持ちでした。自分のすさんだ気持ちが、先生の奥さんにお目に掛かったら、慰めてもらえるだろう、やわらぐだろうと思ってたずねたのです。ところが奥さんに、おまえはああいう悪いことをした、こういう罪をつくった、そのあげくに刑務所に入れられたじゃないかといって叱られました。ぼくはそういうことは聞きたくなかった。母親のようになつかしんでたずねたのだから、よく来たといってあたたかく受け入れてくれると思ったのに、頭から叱られたので、カーッとなって殺してしまったんです」

つまり、どんな悪人といわれているものでも、その心の奥には善良なものを持っているのです。だれかがあたためてくれたら、だれかが自分の気持ちをわかってくれたら、よくなりたいと願っているのです。それなのに、だれも認めてくれない。いよいよすさむいっぽうです。少年のころ世話してくれた、あの先生の奥さんならわかってくれると思うたのにわかってもらえなかった。そればかりでなく、頭ごなしに叱りつけられた。その結果が殺人というおそろしい犯罪を生んだのです。

人間の本心はみんな同じである。人間はだれでもきれいな心を持っている。そのきれいな心をいかに伸ばしていくかということが、お互いの大事な問題です。

ある少年が、早くに親を失って道をふみはずして不良化し、ある補導員のお宅で世話になっていた。が、その家も飛び出してしまい、少年院へ何度か入れられて、とうとう刑務所行きとなった。ところが、その少年が、いちどによくなったという特殊な例があります。補導員も鑑別所も少年院も警察も、どうにも手のつけられなかった非行少年が、どうしていっぺんによくなったか。

それは、その少年を産んで育ててくれたおかあさんの保育日誌が発見され、彼の手に渡り、彼がそれを見たからです。短い日記で、一日に二行か三行しか書いていないが、“きょうはじめてこの子が笑った”とか、“今日は二足歩いて嬉しかった”とか、“きょうはハシカにかかって難儀した”“きょうはおもちゃを買ってくれとせがんだが、お金がなくて買ってやれなかった”とか、彼の幼時を母が自ら記した日記が出て来て、その日記をみているうちに、その少年は泣いて泣いて一晩泣き明かした。泣けるだけ泣いて、そのあとけろっと彼の性格が一変してよくなってしまったということです。

子供を非行化させる原因の一つに愛情不足。ことに母親の愛情が足りないことがあります。ですから、非行化した少年をよくするのも母親の愛情が唯一の作用をします。

繰り返しになりますが、人間はだれでも立派なもの、善に生きる心を持っているのです。それにもかかわらずよくなれないとしたら、それは、持っているよいものを伸ばし、育てていくあたたかい熱と光が足りなかったからです。

自分と他人の区別のない自然な愛情がいちばんよく分かるのは親子のあいだです。母親が子供を育てるときには、子供が自分自身なのです。子供が笑えば、自分が笑ったこと、子供が立てば自分が立ったこと、子供が泣けば自分が泣いたこと、子供がほめられれば自分がほめられたこと、子供がいじめられれば自分がいじめられたことなのです。

そういう自分と他人との区別のないあたたかい愛情が自分の本心だとわかることが、人間にとっていちばん大切な魂の目覚めでなくてはならないと思うのです。




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