米沢英雄師のご紹介

明治42年5月31年福井市に生まれる。旧制第四高等学校文科を経て日本医科大学を卒業。
医学博士。深く真宗に帰依し、福井市で開業医をしながら、全国講演活動した。
平成3年3月ご逝去。

米沢英雄先生は、大谷政子が主宰していた垂水見真会にご出講されたのは、昭和60年12月1日、『何故仏法を聞くのか』と云うご講題でした。
会が終わって、母と一緒にJR垂水駅のホームで、電車に乗られた先生をお見送りした情景は、何故か今も鮮明に記憶しております。今から24年前、私が40歳の時です。母と3歳しか違いません。今にして計算しますと、昭和2年(1927年)には、母も先生も同じ東京で学んでいたことになります。講演の前後に控え室で、そういう昔話をされていたのではないかと想像しております。

先生のご著書『信とは何か』のあとがき≠ノ、「私は、しがない町医者渡世をしているが、生来自我が強かったのであろう、他人にだまされたくないという思いが頭から離れなかった。これは言葉を変えると、真実とは何かを求めていたのだと言えないだろうか。それが親鸞の真実信心まで辿りつかしめたのであろうと思っている」と書かれていますが、親鸞聖人と同じく、お顔に真実を求めて止まない意思の強さが表れているように思います。

私も同じく疑い深く、色々な先輩の法話を聞いたり、ご著書を読んだりしましても、自分の理屈に合わない場合には、どうしても同意したり適当に妥協することが出来ません。
そういう私が、米沢英雄先生の仏法に出遇い、すんなりと受け容れられていることに驚きと「やっと出遇えた!」と云う喜びを噛み締めているところです。

私と同じ様に仏法に関心を持ち、長年仏書に親しみ、昭和50年代では有名なお三人の師の講演を毎月聞いてきて、しかも真宗嫌いであった年輩のお一人の主婦が、米沢英雄先生の講演筆録を読まれて先生に手紙を出された内容が、同じぅ『信とは何か』のあとがき≠ノ紹介されています。

『この説法で初めて私の探し求めていたものを手のひらにのせてみせていただいたように思われました・・・何かこう自縄自縛していたものが解きほどかれ、身軽になったような、うれしくて楽しくて仕方がない、ただ有難うございました、と申し上げるよりほかございません、罪の意識から解放されたというのでしようか。
 我執、自分が一番可愛いという心、この心を拭い去ることは肉体を持っている限り絶対に出来きません。こうきっぱり言われたトタンすぅっと致しました。この我執が罪であるということを教えられるのが仏法というもの、殊に真宗というものである、これで真宗が好き(ごめんなさい)になりました・・・
浅原才市さんの、
  ええな、せかいこくうがみなほとけ
  わしもその中、なむあみだふつ
 この詩に出遇った時、もう何も読まなくていい、これだけ覚えていよう、いやもっと凝縮して、南無阿弥陀仏、これだけでいい、ああやっぱり称名念仏だけ、なむあみだふつ!!こんなに素直に念仏したのは初めて、しかも、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、とあとからあとから出てくるのです。うれしゅうございました。おかげ様でございます・・・』

このお手紙の感想として、米沢英雄先生は、次のように述べられておられます。 『これがこの方の廻心であろう。平素心にかけて求めていると、何かのきっかけで心が開けるのであろう。その縁は一人一人違うから、他人の真似は出来はしない。親鸞が、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれた筈である』、と。




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