魂の軌跡(昭和35年)
帰り着く場所

米沢英雄先生

私たちは確かに私たちの内に仏を持っております。 本来持っておればこそ仏になれるのでありましょう。私たちは確かに浄土に生きているのです。だからこそ、往生浄土ということが成り立つのでありましょう。しかし私たちは直接仏になったり、この身このまま浄土に生まれたりすることは出来ませぬ。私たちにはこれが間接的に許されるのであります。

間接的に仏になり、間接的に浄土に生まれるのを方便と申します。しかもこれが直接的と結果において少しも違いがありませんので、この方便を無上方便と言われます。念仏して浄土に生まれると申しますと、念仏が仏になる、或いは浄土に生まれる手段のようで、その点では間接的であります。しかし前に申しました如く、自我が仏になるのではなく、私において仏が仏になるのですから、念仏が成仏し、念仏が往生するのでありますから、間接的でありながらしかも直接的と申すことが出来るかと思います。この念仏は実践的には懺悔という容(かたち)で行なわれます。

犬は跣足(はだし)なり    丸山 薫

ある日みんなと縁側にいて
ふいにはらはらと涙がこぼれおちた
母は眼に埃でもはいったのかと訊き
妻は怪訝な面持をして私をみた
私は笑って紛らそうとしたが
溢れるものは隠す術もなかった

センチメンタルなと責めるなかれ
実につまらぬことが悲しかったのだ

愛する犬 綿のような毛竝(けなみ)をふさふささせ
私たちよりも怜悧で正直な小さな魂が
いつも跣足で地面から見上げているのが
可哀相でならなかったのだ
という詩があります。 この詩人はある日、縁側で愛犬と戯れながら、およそ常人が経験しない驚くべき体験をしました。犬と人との価値観転換が行なわれたのです。いわゆる常識の世界では、人間は万物の霊長で、犬は人間に奉仕しその代償として食を与えられる下等な存在であります。

この日の詩人にとっては、犬は人間よりもはるかに利口で正直な魂でありました。人間の言い付けを忠実に守り、己の腹を満たすだけの食を得れば、その上はむさぼることなく、欲しい時に正直に欲しいと言うて尻尾を振る、嫌な時は見向きもしない。

これに比べて人間はどうでしょう。表向きだけつくろって、臆面も無く約束を破ります。破滅することがわかっていても、愚行を止めることが出来ません。腹を満たすだけで足らず、ひそかに溜め込みます。人を陥れる、偽る、へつろう、こういう所行は動物にはありますまい。誠に犬畜生にも劣った奴というのが、私たちの正体でした。

しかもその待遇や如何。正直な優しい犬が地面にはだしで坐り、強欲非道の人間は傲然として畳の上にいて、あまつさえ正直な魂を鎖でつなぎ、パンを投げ与えて侮辱しています。

詩人は犬に対して誠に恥ずかしい思いを致しました。そしてハラハラと涙をこぼしました。犬を見て人間が恥じる。これはあり得べからざることです。母や妻が驚くのも無理はありません。母や妻には理解出来ますまい。常識的世界とは人間中心主義の横行する世界で、疑いを起こして本質を深く掘り下げて考えない世界であります。

ここに詩人が流した涙は、犬を鏡として映った己を含めた人間の、厚顔、無恥、不遜に対する懺悔であります。人間は、よくよく考えると、犬にも劣った存在であります。これは誠に悲しむべき事実であります。しかしこうした自覚は、犬には勿論起るはずがありませぬ。故に犬にも劣ったという自覚は遥かに犬を超えております。母も妻も、一般常識人にこの悲しみがわからぬとしたら、この詩人の自覚は人間をも超えております。

つまり、詩人はこの時、犬にも劣ると悲しんだことによって、犬にも劣る存在が、犬を超え、人間をも超えて、仏になったのでありましょう。この詩人に自覚を与えたことによって拝まれて、犬も仏になったのでありましょう。

この時詩人は仏と仏との世界、浄土を垣間見たわけであります。縁側に居る三人の人間の中で、自分の本質を見る眼をもった感覚の鋭敏な詩人のみが犬によって救われています。いや、犬に抱いた懺悔の心によって救われています。私たちは、私たちの外なるもの(それが神と呼ばれようと、仏と呼ばれようと)によって救われるのではありません。私たちの心の内に起こる懺悔によって救われるのであります。

懺悔とは一つの行為について申し訳ないというのではありませぬ。私の存在そのものが誠に申し訳ないということであります。私の全存在を、私を超えたものの前に投げ出さずにはいられぬ心であります。この懺悔において、私の全存在を投げ出す時、私が最後の砦として頼んでいた自我が音を立てて崩壊するのであります。

この「俺が」というものが崩れ落ちたら、その時は私の命終わる時とばかり大事に守り続けてきたその自我であります。私たちには自我の先が見えなかったから、自我を最後と頼んで生きてきたのでありました。その最愛の自我が崩れおちて、初めて私の底にかくされていた仏に出会うのであります。真の主体が確立するのであります。

これも主体とか、仏とかいう形で把握されるわけではありません。今まで足下にふみにじってきた一切のものを、誠に勿体なしと捧げもつ真に謙虚な心が、自我崩壊の跡に湧然と沸き起こります。その時、全宇宙と全歴史を尊しと捧げあげた、その重さだけ私の重さがあるのであります。この時、今日までの我執がなくて、かりそめならぬ命として自己を敬重する心が起るのであります。釈尊が天上天下唯我独尊と呼ばれたのはこの心からでありました。

真実の仏は私たちに懺悔を教え給う方でありましょう。そして阿弥陀仏こそ、懺悔を教え給う仏であり、懺悔の叫びが南無阿弥陀仏なのであります。私たちを救うのは、神や仏ではない。念仏の法であり、自然の過程であります。盲信ではない、否定せんとして否定し得ざる道理によってであります。そこに何等の秘密もありませぬ。天下に公開された道理があるのみであります。

―次に続く




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