心の底に
大脳の生理についてーA

米沢英雄先生

次に大脳辺縁系なるものについて申し上げます。大脳は左右両半球があって、その表層が大脳皮質であると申しましたが、大脳皮質が、半球の底辺になるところは、発生学的には古い部分で、機能も全然異なりますので、皮質の末端にあたるところから、大脳辺縁系と名付け、発生学的に古いので、古皮質、旧皮質と呼びます。これに対し、今まで述べてきた大脳皮質の部分を新皮質と申します。また新皮質が、古皮質に移行する部分を中間皮質と呼びます。

この大脳辺縁系は、脳の下面、底面にありますために、外からは見ることが出来ません。これは下等動物では、脳の大部分を占めております。大雑把(おおさっぱ)な言い方をしますと、大脳辺縁系は、人間も動物も同じだけもっている。人間はその上に、動物のもたない、人間になって発達した新皮質の大きな領域をもっているということになります。

それもそのはずであります。大脳辺縁系というのは、その機能を申しますと、個体維持、種族保存、群居の欲、原始感情の宿るところでありますから。
個体維持というのは食欲、飲欲。種族保存というのは性欲。群居の欲というのは食行動や性行動を能率的に営むために欠くべからざる欲求の心であります。
動物は自衛上からも群居しておりますが、人間も家庭とか、団体とか、社会、国家、民族というように、お互いに寄り集まって集団生活をしております。
原始感情というのは、怒る、悩む、喜ぶとか、好き嫌いというような内臓の活動と深い関係のある情緒であります。

以上で理解されますように、大脳辺縁系は、人間の本能的行動の中枢とも申してよいでありましょう。さればこそ、これが下等動物の脳の大部分を占め、人間も、動物に劣らぬ程度に持ち合わせているわけであります。

今、情緒が内臓と関係があると申しましたが、例えば、腹が減っていると怒りっぽくなるようなものであります。内臓にきている神経を植物神経系、または自律神経系と申します。これは人間の意志で、その働きを左右出来ないからその名がありますが、この自律神経系の中枢が、大脳辺縁系の近くに存在し、その神経の枝わかれが、大脳辺縁系にも来ているために、内臓の変化とこの大脳辺縁系が密接な関係をもっているのであります。

次に脳幹という部分があります。 これは大脳の底面にあって、この上に左右両半球および小脳を載せ、下は脊髄につながり、これらの働きの中継所であると同時に、自律神経の中枢にもなっていて、私たちが生存しているということに、直接必要な呼吸運動、血液循環運動等の中枢が、ここにあるので、実は生命の根元とも言うことの出来る場所であります。

こうして大脳皮質、大脳辺縁系、脳幹というのは、その機能の上で、人間の生存に対して持っている意義が異なるのでありますが、それぞれ神経繊維で連絡されており、また血液中を流れるホルモンによっても連絡調整されているのであります。

それで今までは、大脳皮質の働きこそ人間の特徴と考えられてきましたが、またそれに違いはないのですけれども、よく言われる知力、気力、体力という中の、気力というのは、実は大脳辺縁系から出てくるもので、大脳辺縁系が、上に向かっては新皮質の活動を支配し、下に向かっては内臓の働きを調整しているので、私たちの精神と肉体のバックボーンをなしていると言われます。これが後で申し上げるフロイドの精神分析と関連して参るのであります。

動物は大脳辺縁系のみで行動しておる本能的存在でありますが、人間には大脳皮質が発達しておりますので、これが大脳辺縁系を調整しているというわけであります。大脳辺縁系は、深部にひそんで外に姿を見せませんけれども、ちょうど幕府に対する大奥のように隠然たる勢力をもっている、下手をすると何をやり出すかわからん、そのお目付け役として大脳皮質が頑張っている、というようなわけかもしれません。

マックリーンというアメリカの生理学者は、大脳辺縁系を競馬の馬、大脳皮質を騎手にたとえまして、騎手が適当に馬を調整するところに、人間の社会生活が営まれると申しました。表面いかに平穏な社会生活と見えましても本能の座である大脳辺縁系の働きは強力でして、大脳皮質が抑制しきれなくなる場合があるわけです。また一見抑制されているようでも、すぐその下に大脳辺縁系の働きがうごめいていて、大脳皮質の抑制力の隙をねらう、或いは八方ふさがりの場合、中に閉じ込められた大脳辺縁系のエネルギーが、歪んだ容(かたち)で血路を求めるということがある。これをフロイドが注目したわけでありましょう。

話は横道にそれるようでありますが、戦争というは、どうも大脳辺縁系が引き起こしてくるものと思われます。固体維持の食(広い意味での)を求める本能から、他国の領土に侵入する。また、種族保存しようという本能から、これの妨げとなるような他民族を圧迫するとか、抹殺する。また群居の本能からも、自由主義国同志、共産主義国同志、互いに仲間をつくって頼り合って、他の集団を圧迫する。こういう場合、必ず相手を憎む、という本能的な原始感情が発動します。相手を愛しつつ戦争するなんてことはあることではない。

こうして戦争挑発者は、実に各個人の大脳の深部にひそんで、大脳皮質を操っている大脳辺縁系ということになりましょう。大脳皮質は、 これを外交交渉で何とか折り合いをつけようと努力するのでしょうし、昔は自分の民族に対する愛国心、他民族に対する敵愾心から、大脳辺縁系の跳梁に任せて、大戦争が繰り返されてきたわけでありますが、大脳皮質の教養が進んだ結果、国連によって、戦争を防止しようというわけであります。

戦争を防ぐには、一に大脳皮質に依らねばならぬと、大脳皮質を頼みとしてきたわけでありますが、現代に至って、その大脳皮質が頼みにならなくなってきたようであります。大脳皮質の中でも、最も誇りとする前頭葉、企画、創造の座である前頭葉、いわゆる男の中の男というべき前頭葉が、どうも向こう側、大脳辺縁系の味方に回ってしまつたらしい。と申しますのは、現代の致命的武器である原子兵器は、他ならぬ前頭葉の生み出したものであるからであります。戦争の危機の前に、もう、頼みとするものが無くなったのであります。

戦争挑発者の大脳辺縁系に、大脳皮質が協力、加担してしまつた今日、平和のとりでを大脳の中に求めるとしたら、どの場所にあたるのでしようか。

―大脳整理―Bに続く




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