宮沢賢治と親鸞

米沢英雄先生

親鸞という人はどういう人かと申しますと、その当時お坊さんというものは、肉食妻帯しなかった。蔭ではあっても表では妻を持たず、魚も食べないような顔をしていたのですが、親鸞という人は敢然として、人間というものはこういうことで生きられるものではない。つまり人間というものは、大脳皮質というきれいごとばかりではない。大脳辺縁系という本能も完全に具えているので、この事実を否定して大脳皮質だけで生きようとしても、人間は生きられるものではない。

そういうゴマカシを止めて、自分を人間の同じ立場において、奥さんを貰い、子供を生んで、そしてその子供のために苦労されました。子供が多かったので、貧乏な世帯で育てられ苦労されました。晩年になって善鸞という長男の方から背かれました。そしてこれを勘当しました。恐らく当時の人から批判されて笑われたでありましょう。坊主のくせに妻を持ち子をもったからだと。

しかしそういう中に自ら落ちて、しかもその中から同じ苦しみに落ちている民衆と共に、どうにかして立ち上がっていく道を見出そうと、身を以て対決して、同じ悩みの人たちに、心の方向を与えて、落ちながらも立ち上がろうではないかと勇気付け、教え導いたのが、親鸞という人であろうと思う。

宮沢賢治と云う人もまた、そういう人であったと思います。宮沢賢治はみなに悪口を言われた。宮沢賢治が詩や童話を書いたりしたのは、家が富んで金持であったから出来たのだ、金持の道楽だと言われた。実は宮沢賢治の家は金貸しをやっておられました。その当時、近隣の百姓たちは高利を払って出入りしていましたようです。そこで貧乏な百姓たちが支払った利息で、賢治は本を買ったりなどしたのだと噂を流したようです。そういうことが賢治には非常に苦しかった。それで、自分の家へ金を借りにくるような、貧乏している人々の姿を見ているものですから、少しでも農民を幸福にしてあげたいという強い願いが湧いたのでありましょう。

また宮沢賢治は結核になって自ら命をちぢめた。生きることを拒否したその精神は、何処からきたかというと、祖先以来弱いものを苦しめてきたのを、せめて自分のところで、罪滅ししようとした気持ちがあったのかもしれません。「宮沢賢治は金持だから、道楽にそういうことをやっておったのだ」などと中傷され、そのために彼が苦しみ、決意して自分の命をちぢめるようなことをやったのではなかろうか。そういう点を汲んであげなければならないと思う。

宮沢賢治に「春と修羅」という詩があって、自分が修羅であると申している。修羅というのは闘争と一般にいわれておりますけれども、それは闘争ではなくて、わたしが先ほど申したように、不安に怯えることだろうと思う。宮沢賢治は法華経の信仰を得ているようであるけれども、いつも不安を身に感じていたのでありましょう。しかし、不安は、ますます宮沢賢治を磨き上げて、その信仰を深めていったようであります。もし、我々に不安がなかったら、磨かれるということはありますまい。

信仰というものは、賢くなっていくように思い、人の言うことなど聞かんで、自分はこれでやっていくのだなどという頑固なことを言うのではなくて、金剛の信というのは、どんな人のいうことでも、やさしく聞き入れることが出来ることを言うのであります。柔軟な心がなかったならば、本当の信というものではないということを、親鸞は言っておられる。どんな人の言うことも聞いてあげて、その人の立場を共感していけることが出来て、初めて堅い信仰ということが出来るのであります。誰の言うことも聞くことが出来ず、自分はこれでいく、そのようなかたくなな心はもろい信仰でありましょう。そのような偏狭な心でなくて、つまり世界と一つになるような大らかな広い寛い心を我々は持たねばならぬと思います。




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