真実教の意義
人間の救い

米沢英雄先生

私にお話申し上げよということでございますが、1月のこの会で唱題と称名ということでお話することになっていましたが、それがあの大雪のために流会になったことでありまして、同じ題でも結構でありますが、今日は浄土真宗の根幹であるところの称名、或いは名号でもよろしいが、南無阿弥陀仏がどうして人を救うかということ。つまり浄土真宗というのは、南無阿弥陀仏を称えることによって救われる。どうして南無阿弥陀仏を称えると救われるのか。そしてそれが何故浄土真宗の根幹であるのか。そういうことを、私のように学問もありませんし、信心も浅い者が語れるはずはないのでありますが、こういうことを語ることを縁として、みなさまの信を一層深めていただくことになれば、大変結構なのでないかと思います。

名号はいかにして人を救うかという題を出しますというと、名号がわからん。人を救うということはわかるけれども、名号というものがわからんというのが、大方の場合ではないかと思われるのであります。たとえばどなたかに、名号はいかにして人を救うかということを言うと、その中に名号と人と救いとの三つがありますが、人を救うはわかる、名号がわからぬという人が普通ではないかと思われます。ところがそれは反対であって、人を救うということがどういうことであるかということがわかっておらぬ。わかっておらぬというと語弊があるので、みながわかっておる、わかっているつもりでおる。みなさまは、救うはわかるが名号はわからぬと言われるが、しかし人ということがわかっておらないし、救うということがわかっておらない。

そういう人というものの救いということを明らかにするのが、名号の問題ではないかと思うわけでございます。そういうことが普通の考え、普通の人というと御無礼でありますけれども、念仏の御縁にふれられない方々の間に起こる疑問でないかと思われます。人を救うということはわかる、名号がわからぬというのは、人を救うとはどんなことなのかということが、その人には見当がついておりますので、救うということに名号が当てはまるかどうかということを考えておられるのだろうと思います。ところがその人の見当が間違っているのではないかと思われます。

人という問題も簡単に考えて、自分は頭から人であると考え、救いとは、漠然と幸福になることのように考えておられるのではないかと思われます。それならば、幸福とは一体どういうことをいうのか、人間とはどういうものを人間というのかと、一々突き詰めていくとわからなくなってしまうのであります。その人とか救いとかが分かっておらないのであって、そういうことを明らかにするところに名号の問題があるのでございます。こう思うわけです。

仏法は、今まで仏様の問題であるとか、或いはお浄土の問題であるというふうに考えられていたようですが、私はどうも人間の問題であると思う。人間というものはどういうものであるかということを明らかにするのが、仏法の問題でないかと思う。それで、みなが迷っているということ、或いは救いというものを明らかにするというのは、人間というものが明らかになっていないというところにあると思う。明らかになっていないということならば、まだ手がかりがあるのであるが、自分では明らかになった積りでおる。そういうところに問題がある。自分が人間であるということを前提として立っている。娑婆というのは、どういうところかというと、自分が人間であることを前提として出発している世界を、娑婆というのであると思います。




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