真実教の意義
人間の意識

米沢英雄先生

それで精神分析という学問がありますが、私はこの学問を借用して人間の意識の構造のことを申し上げてみようと思います。それを大雑把に分けて、人間の意識活動と無意識にやる活動に区分出来ます。意識の活動は説明しなくともよろしいが、無意識の活動というと、たとえば飯を食うのに腹がへっておりますと、夢中に食うということがありますが、そのように本能的に働く、我々は色々に本能活動があります。それが無意識活動であります。人間の意識構造は一応この二つで出来上がっていると申してよいと思います。

意識活動は、大脳皮質の部分でなされるのであって、ここで人間の認識判断とか、色々企画するとか、視覚とか聴覚とか高等の感情とか、人間に特有の活動が起こる。その大脳皮質の続きで、脳の内部に本能の働く場所がある。これを大脳辺縁系と言っております。人間はこの二つで出来上がっております。娑婆というのはこの二つで営まれていく生活を言うのであろうと思われます。この生活の特徴は一人一人に差別があるということでないか。この二つの働きが健全であれば、人間として一人前のようである。

ところで無意識本能にあたるところが、仏法でいう煩悩で、意識活動が、分別と“はからい”に当たるのでないかと思います。これは正しいかどうか分かりません。それは仏法でいう六煩悩の分け方でみますというと、“はからい”というのも煩悩に入るのでありますが、大体大脳皮質の意識活動と大脳辺縁系の本能と、そのうち前者は人間しかもっていない。

人間の文化は、実はここのところで生み出すのであり、我々が煩悩を起すのは無意識の世界、大脳辺縁系でないかと思います。これは便宜上こう考えてよい。何故こう考えるかというと、我々の自覚の上でかっこうがつくから便宜かと思うのです。それで阿弥陀仏が『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』と言われるのは、この“はからい”の意識と煩悩を起す無意識の世界を言っておられるのであって、人間を尽くした言葉ではないかと思う。

大脳皮質と大脳辺縁系だけで人間であると我々は思っているのでありますから、そしてこの分別・“はからい”があるということに、人間の誇りがあると思っている。しかし、大脳皮質は一人一人に差異があって、たとえば学校の成績を見てもそれぞれ差異があり、そこに争いが起こり、安穏という世界から非常に遠くなって、お互いに絶対に相容れない。人間は安穏の世界でなければならぬのにかかわらず、それを差別しているのは大脳皮質の意識のわざではないか。それでそれを取り去ればよいわけでありますが、それを取り除くことがなかなか出来ないことであります。

みな差別に執着して隣りの子に負けるなと尻を叩いているのが親であって、それに執着していることを悪いとは思わぬ。それでこそ人間の文化が進むのだというふうにかえって、問題を甘く考えておるのではないか。そのようにお互いに差別し、競争して、果たして幸福であるかどうかということであります。今までは人間は文化を生み、幸福をもたらすことが出来たと考えてきたのでありますけれども、幸福だと言い切ることが出来なくなったのが、現代というものではないかと思われる。科学が進んだ結果、原子爆弾とか、或いは農薬、或いは人造肥料が進歩した結果、人間の世界が荒涼となった。

この間安田理深先生から聞いたのでありますが、京都の名物、“すぐき”というものが出来なくなったというのです。あれは、京都だけに出来る特産物でありますが、それがこの頃奇形になってきた。それはサリドマイドを飲んだお母さんに、奇形児が生まれるのと同じであります。それは人糞が化学肥料に変わるからでありましょう。化学肥料は、一面清浄肥料ともいうし、便利で増産にもなるというのでしょうが、そういう妙な現象が起こるばかりか、地面は荒らされるし、蛍、蝶々がいなくなって、農地の中にも鉄筋コンクリートが林立して、人間のまわりがやたら殺風景になってきました。そういうことが人間にとって幸福かどうかということです。

数学の岡潔先生が言われていることですが、はしごをかけなければならぬようなおおきいキャベツが出来たって何になるか。それは台所の話。人間生活の表玄関は花が咲く、蝶が舞うところで、人間の情操はここで養われる。この頃の人間は情緒が乏しくなって、衝動的となる。知らず知らずの中にだんだん移り変わってきているのが恐ろしい。

それならばそういう好ましからぬ方向へ人間が向かいつつあるのは、何処に本があって何処からくるかというと、この“はからい”分別意識から来るのであります。つまり、自分さえよければよい、人間中心、他の動物などのことを無視した分別からくるのである。そこへいくと仏法は、草木国土悉皆成仏と言われて草も木も虫もみな成仏する世界を、お釈迦様は念願していられるのである。そういう世界と、科学分別の世界とは大分違う。昔は人糞を大地へお返しして、自然に随順して農作をしてきました。大きな循環の中に生きていたのであります。

今は科学で寿命が延びたというが、それにしても色んな問題があると思います。私は寿命が延びたと皆が言っているが、それは反対なのであって、逆に寿命は縮んできているのではないかと思う。個人の寿命は60、70と延びていくようでありますが、昔の人はもっと大きな尺度で寿命を考えておったのでないかと思われます。あそこの家は三百年続いておる、永く続いておる家系ということで寿命というものを考えておったのでないか。今日は、たったオギャーと生まれて死んで行くのを寿命と考えておる。

寿命を刹那しか考えていない。寿命というのは、永遠の命ということで、南無阿弥陀仏というのはその永遠にふれることを言うので、昔の人は寿命をそういうように受け取っていました。我々はあまり浮き沈みに引き回されて、刹那刹那に追い回されておる。何故我々が無量寿、無量光に触れなければならぬかというと、そういう刹那刹那の命から解放されて、私等の生命を永遠の命として下さるからであります。今日の人々は、無量寿、無量光などということを忘れてしまって、現代の科学だけを信頼して、その刹那刹那の幸福追求に追い回されて、その結果人間の命が延びたようであるが、人間の心が縮まっていった。永遠を忘れたことで、人間がだんだん小さく痩せ細ってきたのでないか。幸福を求めながら、逆に本当の幸福というものから遠ざかっているのでないかと思います。

―『魂の呼びかけ』に続く




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