在家仏教
真の念仏三昧

米沢英雄先生

『家庭のわずらい』からの続きー

それで念仏三昧というと、念仏で精神が統一される。このように考えられる。法然上人は確かに念仏三昧の生活をしておられ、南無阿弥陀仏を6万遍称えられたというが、しかし南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏が念仏三昧かというと、こういうところに私は疑問を持つ。そういうことが私たちに出来るであろうかどうか。ナンマンダブ、ナンマンダブと言っている時に「オオイ」と呼ばれると、念仏が何処かへ行ってしまう。「お爺ちゃん」と呼ばれると、念仏が何処かへ行ってしまう。だから念仏三昧は持続しないのではないか、こう思う。

どういうのが持続するのかというと、たとえば蓮如様の御文(おふみ)に「一心一向に弥陀たのむ」とあるが、一心一向というのは我々がやれるか、我々が一心一向になれるか。一心一向に弥陀たのむことは出来ぬ。それで一心一向になれないという自分というものが、そこに明らかになってくるのでないか、このように思います。

私は真宗の教えの中で、一番ありがたく思うのは、私はじだらくな人間だから、「散乱放逸モステラレズ」という和讃がある。これぐらい有り難いことはない。念仏は昼寝しておっても良い。人の悪口を言っていても良い。散乱放逸も捨てられずということほどありがたいことはない。念仏三昧などとても出来ません。全く散乱放逸が私の生活だから、これを捨てるのではなくて、こちらがいくら放逸であっても捨てないと仏の方から言われる。だから仏を信じられておらなければ、散乱放逸も捨てられずというところに腰をすえるということが、なかなか出来ぬだろうと思われる。しかし捨てられずということが事実なのです。

念仏三昧というが、念仏をナンマンダブ、ナンマンダブと口で称えている人はあるにはある。たとえば北海道にM先生というお医者様がおられて、その方が非常に尊敬しておられるある方は念仏三昧の人。汽車の中でも何処でも念仏ばかり称えて、本願の念仏ばかりを説かれる人だそうです。M先生が非常に尊敬しておられる。

しかしその人は私は勝手な人だと思います。それはお寺さんのあとを弁当をもってついて歩く。 すると田畑のことは奥さんに任せておく。奥様に農業を任せて、自分は弁当もちでお寺さんのあとをついて歩いている。これは誠に勝手な振舞いだと思う。それをMさんは偉いと言われる。私はそんなことより家庭の仕事に精出ししている方が、はるかに立派だと思う。お寺さんのあとをついて歩く。それは或いは念仏は称えられるかもしれぬが、これはどうかと思う。それは一種のエゴイズムでないかと思います。だからみなさまお寺に来て仏法を聞かれる場合は、忘れてはならぬことは、家で留守番してくれている人がある、ということ。

話はとぶが、釈尊の弟子に須菩提という人がおる。それから蓮華比丘尼という、べっぴんの尼さんであろう人がおる。釈尊が遠方から帰って来られたら、須菩提は家で仕事をしていて、蓮華比丘尼が村はずれまでお迎えに出て来た。その時に「一番始めに迎えに来ているのは須菩提で、須菩提は家で針仕事をしているが、一番先に出迎えている」とこのように釈尊が言われた。

お寺へ来て仏法聞いている人よりも留守番しとる人が一番仏法を聞いているのである。釈尊はよいことを言っておられる。このようにして自分だけよろこんでいるという人は、エゴイズムだと思う。まぁみなさまはここで帰らねばならぬ。それで念仏する人のなかにおおよそ、このようにあつかましい人がいるものです。

だから親鸞聖人は「牛盗人と言われても後世者、念仏者と言われるな」と言っておられます。みなさまお数珠(じゅず)をおもちになっているから悪いけれども、私は数珠をもたぬ。あんた何故数珠持たぬのだと聞かれると、私は医者で人殺しをしているので、人殺しは数珠をかけるぐらいで罪が消えるものでないからと、私は言っている。数珠をかけるのが本当です。本当ですが、私はそういう時に逆襲するのです。「お釈迦様は数珠かけとったかいな」。するとみな参ってしまう。

数珠かけていると、いかにも仏法者らしく見える。そういうことが私はいやで、私は人殺しをやっているのだから、数珠かけて後世者らしく見えるということは好かぬ。親鸞の「牛盗人と言われても念仏者と言われるな」の言葉が私はありがたいと思う。

それで私は横道ばかり行きますが、横道も本筋です。これはいつか申し上げたことがありますけれども、「諸仏を見るを以ての故に、念仏三昧と名づく」私も三日間、「一日出家の集い」で、坐禅したり聴聞したりする時はね非常にさわやかであるけれども、家へ帰ると手を休めてねもとの木阿弥になってしまうのでないか。家へ帰ってまで持続する方法はないものかと、「諸仏を見るを以ての故に、念仏三昧と名づく」、これがわかって下されば、という。

普通、ナムアミダブツ、ナムアミダブツというのが、念仏三昧というように思われているけれども、諸仏を見るを以ての故に念仏三昧と名づくと、家庭生活の中で、職場生活の中で、諸仏をその中で発見することが出来るかどうかということである。こういうのが、念仏三昧にかかっている。ですから我々はお互いが人間だと思うとるから腹が立つ。そうでない、諸仏だとこういう。相手が諸仏だというのが年仏三昧である。諸仏を見るを以ての故に、念仏三昧と申し上げる。

「而今の山水は古仏の道現成なり」
これは道元の言葉である。而今というのは今、眼の前にあること。山や川は古仏であるといっても仏像の骨董品を言うのではない。古仏とは言葉を変えれば法身仏である。それは人間の眼にはわからぬ。だから私は「はたらきそのもの」と言い換えた。太陽から月から、虫けらから我々、この世の存在する一切を生み出すものを法性法身とか法身仏とか言っているのである。

それを道元禅師は「古仏」と言われる。古仏が具体化している。はたらきそのものから、存在一切が生まれる。我々も両親から生まれて来たように思っているけれども、両親もはたらきそのものから、縁あって生まれてきた。はたらきそのものまで戻ると、魚でも鳥でもなんでもみな我々と同じである。一如平等である。

だから親鸞聖人も一如平等の世界、これを無上仏と言っておられる。無上仏というのは色も形もなくまします。はたらきそのものだから色も形もない。色や形ははたらきそのものから具体化して、形をとってきたもの。我々ももとを正せば、はたらきそのものから生まれてきたのである。はたらきそのものが大本である。これが一番大事である。「離言の法性」ということである。色も形もないということは、言葉では表現出来ないということである。

はたらきそのものが大本で、それからすべてきている。形のないはたらきそのもののはたらきを感じとることが出来るかどうかということが、我々にとって大切なことである。我々は形のあるものしか見ておらぬ。形以前のはたらきそのものを感じ取るかどうか。はたらきそのものは色も形もないけれども、我々を助けるために色々な形をとって下さっているのでないか。

太陽がないと生きられぬ。月がないと生きられぬ。風や雨がなくては我々は生きられぬ。山あり川あり、虫けらまで一切あるお蔭で我々は生きることが出来る。一人一人を生かすために宇宙全体総力をあげて、寸時も休まず活動して下さるのでないかと、そういうことを感じ取る心を、信心というのでないか。

―『諸仏を見る』に続く

合掌ーなむあみだぶつ




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