在家仏教
諸仏を見る

米沢英雄先生

『真の念仏三昧』からの続きー

これは人間の意識とは違う。人間の意識は、太陽がある、月があるということだけは分かるけれども、そういうはたらきは、私一人を生かすために全宇宙が連続して働き続けて下さっているということまでは分からない。そういうことを分からせるのが仏法であるということが言えるのではないか。そういうことを分かっている人に、榎本栄一さんという方がおられる。

この方は時々ご紹介しますが、この方は東大阪で小さな小間物屋をしておられる詩人であります。この間も難波別院に参ってこられて、耳が遠いので補聴器をかけても話が聞こえぬのであります。この方が『足音』という題で、

        夜    かすかな雨の音
        風の音

そこまでは我々もわかる、今雨だ、風だ、と。

        これは
        仏さまが
        この人の世を
        おあるきになる    足音です

これは仏様の足音。そこまでは我々には分からぬ。はたらきそのものが我ら一人ひとりを生かすために、雨となり風となり、我々を助けて下さっておる、仏の足音だと。我々は仏というとこの後(本堂須弥壇)に立っておられるのが仏だと思い込んでいる。はたらきそのものが仏であるというところまでなかなかいかぬ。はたらきそのものが仏であると分かるということが、一番大事なことである。

榎本さんはそれが分かる。かすかな風の音、雨の音。これは仏様の足音です。足音という言葉がいいですな。つまりはたらきそのものが我々の生活を助けるために、雨となり風となって吹いたり降ったりして下さると、こういうことです。ですから雨や風を通じて仏のはたらき、そのはたらきを感じとれるかどうか、そこに合掌礼拝という心が起こってくるであろう。

だから雨とか風とかは諸仏である。形をもったものはみな諸仏である。形を持って存在するものは諸仏である。太陽でも月でも業を果たしておる。それに比べて我々は一服する。少し働くと一服する。太陽でも月でも一服することがない。みな働き、全宇宙の諸仏はいつでも働き続けている。十方恒砂の諸仏のはたらき、恒砂塵数の諸仏、砂の数ほど諸仏がある。塵も諸仏、我々は諸仏を箒(ほうき)で掃いていることになる。諸仏は我々が掃いても文句を言わない。我々なら文句がある。

恒砂塵数の諸仏のはたらきによって我々が生きることが出来る。だから親鸞様が「五劫思惟の願をよくよく案ずるにひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」と言われた。弥陀の本願というのははたらきそのものが諸仏となって、具体的な形をとって私に働き続けておられるのであるということを、弥陀の本願は教えるので、弥陀の本願は自分一人のためであると、こう親鸞様が言われたのは誠にもっともだと思う。

私だけではない、隣りにも太陽が照っているでないかという。それは隣りの話でない。私一人のために太陽が照って下さっていると感じて、頭が下がるということが、一番大事なことではないか。隣りの者が頭を下げたら、自分もその次に下げる、こういうのが高原の陸地ということである。私のような者にでも太陽が照って下さる、風が吹いて下さる、と。

この間岐阜は雨が降り続いて、被害を蒙(こうむ)った人がたくさんあった。雨風諸仏のはたらきのお蔭で、生かされて生きているということを忘れているから、時々気合が要るので、あれは気合いが入りすぎたということか。

この諸仏のはたらきは少しも休まず働き続ける。それを散乱放逸も捨てられず、こちらは一服していても諸仏は働き続けて下さる。散乱放逸も捨てられずというところに有り難さがある。仏は一服せぬ。我々はいかに放逸でも、仏のはたらきは休みなし。散乱放逸の者でも血液は循環している。それもはたらきそのもののはたらきである。はたらきそのもののはたらきは、いかに散乱放逸でも少しも休まずに私に向かって働き続けている。こういうことで散乱放逸であるところにもはたらきそのものの寛大なること。我々は、それに比べて狭い心ではないか。我々は御礼を言われぬと腹を立てるしろもの。

太陽や月でも、人間が御礼を言わんでも、少しも休まず働き続ける。それを大悲と言われるのであろう。如来大悲の恩徳というと、何か仏様が特別なことをするように思われるが、そうでない。
太陽から月から雨や風が働きづめに働いて、我々の生活を成り立たしめて下さっておるということを、如来大悲と言われるのであろうと思う。

はたらきそのものが具体的な形となって、諸仏のはたらきとして働く。だから具体的な形を通して、諸仏のはたらきをそこに感じとるということが大事なことであると思う。いかに私共がはたらきを無限にいただいて、真実の世界に生かされている私であるかということに気が付いて、そこに下がらぬ頭が下がるのであろうと思う。我々の頭はなかなか下がらぬ、下げることはあっても、下がるということは絶対にない。我々は頭を下げない、下げるには交換条件がある。

私はよく言うのだが、私は医者をやっているものだから、みなお願いしますと頭を下げる。よい薬をくれるように、高くとらぬようにと、このようなことで私に頭を下げる。これらの条件が満たされないと、悪口を言われることになる。「あいつは不親切なやつだ」と悪口を言われる。私は悪口を言われることが多いのだけれども。それはまぁ人間は、交換条件をもって頭を下げる、頭を下げることはあっても、頭が下がるということはなかなかない。

先ほどの、夜かすかな風の音を聞いて仏様の足音と言われる。これは榎本さんの頭が下がっている証拠である。仏のはたらきに頭が下がっているのである。だから形で頭が下がっていると思わぬというのが人間の愚かさである。仏様の足音ということで、榎本さんの頭が下がっているということが分かるわけです。それで形の上でなく、はたらきそのものを我々が感じ取って、散乱放逸も捨てられず、全宇宙が全協力して、私一人を生かしめようとして骨折っておられる。

そういうことをしみじみと感じとる、そこに信心というものが生まれてくる。それが信心というものであろうと、こう思う。散乱放逸も捨てられずということは大切なことだ。散乱放逸も捨てられずというところに、如来の大悲というものが脈々として活動しておられるということを感ずるわけである。それで私らが人の悪口を言うとっても、はたらきを止めることはない。息が止まるということはない。そういうところが非常にありがたいと思う。

だから「一日出家」の方々に、家へ帰っても人間と思ったら間違いで、はたらきそのものが夫となり妻となり子供となり、具体的な形をとって私を助けて下さる、こういうこと。気に入らぬ人があると、気に入らぬということを通じて、こちらに気に入らぬという「我執」のあることを気付かしめて下さる仏である、こういうことになると全部仏ならざるはない。

風や雨は仏そのもの、気に入らぬ人は、自分の心に我執があることを知らせて下さる仏であるということになります。すべて仏ならざるはない、諸仏ならざるはないということになる。そのように諸仏を発見するところが、念仏三昧だと思う。

念仏というのはナムアミダブツ、ナムアミダブツと言うことではない。ナムアミダブツ、ナムアミダブツと言っていても、諸仏を発見出来なかったら、それは口先だけの念仏であって、本当の生きた念仏ではない。こういうことが言えるのでないかと、こう思います。

―『「悔い改め」られぬ私』に続く

合掌ーなむあみだぶつ




[戻る]