心の詩ーありのまま

米沢英雄先生

●詩−川端茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〜1941年)
     うち仰ぐ 月さかしまに 雲に乗り

● 米沢秀雄師の感想
晴れた夜空に雲がたなびいている。折からのぼってきた大きな月の上際が雲にとどいた。それを俳人は、月がさかしまに雲にのっていると見たのか。ちょっと捻(ひね)った表現ではあるが、表現が意表をつくために、よくでくわす景色があらたまって見えるようだ。

私たちは普段思い上がった自分を基準にして世間を眺め、眼前に現れているものに気に入るもの入らぬもの、善人悪人のレッテルを貼り付けて、それがその人の本質であるかのように錯角しているのではないか。

東井義雄という僻地の教育に尽悴していられる小学校長さんに、「貧しく愚かに」という長い詩があって、その中に自分が「愚か者ものしらず」に生まれたことを喜んで、もしそうでなければ、「先生も子供も、肉親も他人も、先輩も後輩も、味方も敵も、愛も誤解も中傷も、人生のあらゆるすばらしい師匠たちが、師匠になることをやめていってしまったかもしれない」とある。

また自分が「なんにもできないどがいしょなし(何も出来ないど甲斐性なし)」に生まれたことを喜んで、もしそうでなかったら「学のある人もない人も、どんな身分をもっている人もが、みんなわたしより偉く見えるこのしあわせな目を、恵んでもらわずに、来てしまったかもしれない」と言われる。最後は「これからも貧しく愚かでどがいしょなしであることのしあわせをたいせつに、いのちの限り、貧しく愚かに、生きぬかせてもらいたい」と結んでいられる。

貧しく愚かでどがいしょなしとは、思い上がりの徹底的な破壊で、自我の絶対否定であろう。そこにひらけてくる世界の何と広くおおらかなことよ。天地草木の自然から、出会う人々の一切を尊く有り難くいただくことの出来るのは、ただ一つの自我が徹底的に否定し尽くされるところにある。

驕慢の自我が見ていた世界と、同じ世界でありながら、全く姿を変えてくるところに信心の不思議がある。思い上がりが逆転して謙虚になるところに、住んでいる世界も無碍自在の真実をあらわにしてくるようだ。

● 無相庵の感想
小学校長の東井義雄師が、ご自分のことを「愚かで、ど甲斐性無し」と言われたと云うことでありますが、東井義雄師はお寺のご住職と小学校長と云う世間での地位・身分を持たれ、且つ教育界ではペスタロッチ賞と云うとても名誉な表彰も受けられましたし、そして何よりも仏教界(特に浄土真宗)では講師として引張りダコ≠フ著名な方でありましたから、経済的、社会的地位に恵まれた方であります。ですから、その方の「愚かで、ど甲斐性無し」と云う言葉は、私などは謙遜だと受け取ってしまいます。
でも、それはきっと思い上がりの激しい私だからそう受け取ってしまうのだろうと・・・。

私自身、正直なところ、「自分は欠点も欠陥も多いし、サラリーマンとしては出世も出来ず、脱サラ起業したけれど倒産寸前の借金王に成り下がり、妻子に苦労を掛けている。しかし私は一流と言われる大学を出ているし、沢山の本を読み教養を積み、仏教にも親しんでいる。趣味としてはスポーツもカラオケも得意だし、そして何よりも未だ技術者としては現役で頑張っているし、そう捨てたものではない」と思っています。

しかし、この自己評価は飽くまでも(自分の周りの人々と比べての)相対評価であり、且つ低レベルでの相対評価でありますから、視点を変えますと、何の実力も無い、吹けば飛ぶような存在ではないかと謙虚な想いも湧いては来るのでありますが、始末が悪いことには、そう云う謙虚さを誇る想いも同時に湧いて来てしまうのです。

米沢先生が、「貧しく愚かでどがいしょなしとは、思い上がりの徹底的な破壊で、自我の絶対否定であろう。そこにひらけてくる世界の何と広くおおらかなことよ。天地草木の自然から、出会う人々の一切を尊く有り難くいただくことの出来るのは、ただ一つの自我が徹底的に否定し尽くされるところにある。」と述べられていますが、「まことにそうだろうな!」と思いますが、思い上がり状態から脱出出来ないでいますから、「どうすれば、東井義雄師のような徹底した自己否定が出来るようになるのだろうか、果たしてそのような瞬間が自分に訪れるのだろうか・・・」と、焦りさえ覚えるときがあると云うのが正直なところであります。

合掌ーおかげさま




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