心の詩ー初対面

米沢英雄先生

●詩−目がさめてみたら―東井義雄

     目がさめてみたら 生きていた
     死なずに生きていた
     生きるための いっさいの努力を忘れて
     眠りこけていた わたしなのに
     目がさめてみたら
     生きていた
     劫初以来一度もなかったさらっぴんの
     朝のどまんなかに
     生きていた

● 米沢秀雄師の感想
福井の東別院の暁天講座で、東井先生が法話の中でこの詩を読まれた時、私は正直脳天をなぐられたような気がした。私はかねがね絶対他力は誰でもいつでも触れることが出来ると言うてきた。それは自分の息のことを思ってみることだ。自分の力で息が出来ているか。何か知らんが私たちの息を出さしめているものがある。だからみんな無意識に息をしているではないか。その息、これがなければ一切がなり立たぬ息を出さしめているはたらきが、即ち絶対他力なんだと言うてきた。ところが私の脳天を襲うた一撃は「劫初以来一度もなかったさらっぴんの朝」このひとことだった。

言われてみればなるほどそうに違いはない。違いはないが、夜が明けると朝がくるものだと私たちは常識的に考えてきた。また毎朝に対していい加減な取扱いしかしてこなかったようだ。今朝が宇宙たち始まって以来の初めての朝だとは、有史以来一度もなかった朝だとは。手の切れるような一万円札という言葉は聞いたが、全く手の切れるようなまっさらな朝に今出遇うのだとは、これは大きな感激であるはずだ。ああ眠いなんて言うていられない。とび起きて有史以来初めての今朝にお目にかからずにはいられまい。ところでお目にかかるこちらも、昨日の私ではない。有史以来初めての私なのだ。新品と新品との対面だ。これがナムアミダブツなんだろう。

またこの「どまん中」がいいね。一人ひとりがどまん中なんだ。みんなが中心なんだ。一人ひとりのみんなに向かって、大慈悲が惜しみなく注がれているんだ。左右を顧みてひとと較べてみる必要がない。そんな横眼を使うから、自分に与えられている最大最上のものが目にはいらないんだ。もともと裸で生まれてきた私たちではなかったか。身のほどを知ると、過分である冥加にあまるがうなずけるだろう。

● 無相庵の感想
西川玄苔老師が垂水見真会に初めて来られた時になさったご法話の中で、交差点で信号待ちをしていた時に突然車に跳ね飛ばされて、両ひざの複雑骨折など全身血まみれの瀕死の重傷を負われ無意識のまま病院に運ばれ、大手術を受けられたご体験談を話されましたが、そう云う異常なご体験をされた後の病床で迎える毎朝、目覚めるたびに卵がポコン≠ニ一つずつ産れるような新鮮な気持ちになったと云う話をされましたが、東井義雄先生の初対面の詩を読んだときに、その西川玄苔師のお話を直ぐに思い出しました。

西川玄苔師はそのお話に付け加えられまして、「病室にカレンダーがあったけれども、1か月カレンダーは一日一日が大事にされていない気がして、日めくりカレンダーに代えて、一日一日を大切にめくっていった」と。しかし、「だんだん体が動くようになり、退院した後には、病院に居るとき程には一日一日が新鮮ではなくなっていった」と・・・。

初対面のように一日を迎えられたらいいのですが、仕事に追われ、スケジュールに追われている娑婆生活にどっぷり浸かっている私たちには、到底出来ることではないと思われます。と云うよりも、それは少し異常な精神状態と言わなければならないかも知れません。でも、そんな私たちでも、一週間に一日(週の始まりの月曜日)でもいいでから、さらっぴんの朝を意識したいものだと思います。本当は、特別な出遇いが待っている朝かも知れないのですから・・・。

合掌ーおかげさま




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