心の詩ー人間成就

米沢英雄先生

●詩−人間ー寺島富郷(てらしま とみさと)

     木の葉もいい
     小鳥も 犬も
     牛もいいし
     何になるのも
     結構なことだが
     しかし
     自分のからだの死ぬことを知り
     ひるとよる 夏と冬とを
     ふまえて立つ
     人間に
     一ぺん ならしてもらえて
     ほんに一番有難い

● 米沢秀雄師の感想
お寺へ行くとサ、お説教の始めに、お寺さんが勿体ぶって唱えるだろ。「人身受け難し、今すでに受く」って。あれ、ピンとこないね。だってわれわれ人間だもの。なんで受け難いのか。現に受けているじゃないか、とねじこみたくなる。

それに源信僧都ってぇのかな。「まず三悪道(さんまくどう;畜生、餓鬼、地獄のこと)を離れて人間に生るること大きな喜びなり」とか言って、地位が低くても貧乏でも苦悩があっても畜生、餓鬼、地獄よりましだってさ。無理だよ。おれたちの知らんものと較べて、まされりなんていってもさ。そこへくると、この人の言うこと分かるな。小鳥も犬も可愛いし、牛ものんきでいいし、きれいな草花になるのも――。

君のわかるのはそこまでだろう。そのあとはわかるまい。自分の死ぬのがわかる、これは人間だけだ。だから苦悩があり不安がある。夜は休息するにしても、昼は心身を労して働かねばならん。気に入らん人にも、頭さげんならん。夏は暑くて堪えがたし、冬はまた、寒くてかなわん。人間は花や小鳥のように無心ではないから、そこで人生生きるに値するかと考えこむんだな。

でも、それをわれわれの貧弱な頭で考えたってわからんよ。ノイローゼになるか、自殺するかがオチだな。法蔵菩薩は五劫の間、思惟されたというもんな。そして見出された仏の教えがあるんだ。その仏の教えに聴くんだ。そして、それを「ふまえて立つ」人間になるんだ。これはもう人間ではなくて菩薩、求道者と言うべきだろう。こうなって初めて人間に生れてよかった、私であってよかったとなるんだな。これを人身を受けたというんだ。 だから、人間に生れてよかったと心の底から喜び得た時、人間になれるんだよ。どうだ、やはり人身受け難しじゃないか。君も「ふまえて立てよ」。

● 無相庵の感想
寺島富郷さんは、米沢秀雄先生が『心の詩』にその詩が数多く引用されている寺島キヨコさんのご主人であります。私は寺島ご夫妻のことをよく存じ上げませんが、多分ご夫婦ともに仏法の教えに導かれて生きられている市井(しせい)の詩人≠ナありましょう。

さて、私たちは救われたくて&ァ法を求めるのでありますが、仏法ではよく「既に救われている」と申します(幸せを遠くに求めてさまよったが、その幸せは実は私の足元に既に有ったのだ.とか・・・)。今回の詩も「人間に生れさせて頂いたこと自体が救われていると云うことではないのでしょうか?」と云うのが、この詩を詠まれた寺島富郷さんのお考えではないかと私は推察しております。

勿論、人間の命を貰って生れた赤ちゃんが既に救われているとは言えないと私は思います。また、人間の体・形を与えられて生まれながら、大人になって殺人を犯したり、世の中のルール、法律、約束事を守らずに人生を渡っている人に付きましても、その人が「既に救われている」とは寺島さんも仰らないのではないかと・・・。そしてそれは、人間の価値を知らないまま、つまりは人間の命に目覚めないままに、他の動物と変わらない生き様をしているだけだからだと私は思いますが、如何でしょうか・・・。

米沢先生が引用されている「人身受け難し、今すでに受く」は、三帰依文(礼讃文とも) と申します。この句の後に「仏法聞き難し、いますでに聞く」と続きますが、別に仏法でなければならないと云うことではないと私は考察しております。この世に命を頂いて今生きている事実と瞬間が何に依って支えられているかを知り、喜び、感謝し、周りの人々と共にその喜びを分かち合えることが人間に生れた価値だと目覚めることが大事で、この考え方は、仏法の専売特許でもないと思っております。

人は3回生まれるのだと思います。先ず「この世に赤ちゃんとして生れる」、次に「自我が芽生える(自分と他人の区別が付く)」、仕上げは「本当の人間に生れる(人間に生れた価値を知る、救われる、廻心する、悟りを開く)」。そして、永遠の命を頂きたいものであります。

次回は、寺島キヨコさんの『愛のお話を』と云うこころの詩≠ゥら仏法を学びたいと思っております。

合掌ーおかげさま




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