心の詩ー凡愚浄土

米沢英雄先生

●詩−愛のお話ー寺島キヨコ

     むつかしいことを 言わないで下さい
     わたしは 鍋釜を下げて歩いている
     女房なのですから
     亭主を 神様と思い
     子供をつれて
     歩いている 女房なのですから
     くだらないと 言わないで
     やさしい愛の お話を
     聞かせて下さい

● 米沢秀雄師の感想
困っちゃうな。今時、こんな人がいるから女性の地位がいつまでも向上しないんだよ。みなさい、亭主を神様だって、男子に隷属しているじゃないの。鍋釜下げてなんて、世帯じみているわね。もっと女性は女性独自の世界を持たねばならないんだわ ――とウーマン・リブ女史は、柳眉を逆立て口をとがらせておっしゃるだろうな。

哀れな女史よ。あんたが息捲けば捲くほど、あんたは男性を意識し過ぎ、男性に対してコンプレックスを感じているんだよ。この人は男子を意識していません。夫も子供も、この人と一体になっている。夫の幸福、子供の幸福が、とりもなおさず自分 の幸福になっている。

つまり、この人の住んでいる世界の方が広いんだ。わめきたてている女史の世界は、自分一人の世界、自我の世界、狭いんだね。狭さを意識するからこそ、その自我の世界を押し広げようと、焦るんだね。主体性ということをリーダーシップを取るこ とだと勘違いしているじゃないか。

この人の方が、主体性があるよ。主体性があるから、鍋釜下げて満足して歩いていられるんじゃないか。主体性というのはね、相手と一つになれることなんだ。 一切衆生は、わが子なりと言われるのは仏だが、これが真の主体性だね。女史のは群雄割拠じゃないか、縄張り争いじゃないか。

威勢よさそうだが、ケチ臭いね。原始女性は太陽であったそうだが、太陽ならその光と熱で一切の生物を育てはぐくみ、しかし少しも恩にきせないね。女史も原始女性に帰るべきだな。ご主人を神様とあがめ(あがめるものをもつものは倖せだ。女史 はお山の大将になりたがっているのだ)子供をつれて鍋釜下げて、黙々と歩いているこの人こそ原始女性じゃないか。

原始女性って女の原点だろう。本質だろう。わめくなよ。浅い鍋はすぐに沸き立つというよ。自分のまだ足りないことを省みているこの原始女性こそ、奥ゆかしいではないか。

● 無相庵の感想
この『心の詩―凡愚浄土』は昭和49年2月25日に書かれたものです。ですから、この寺島キヨコさんの詩も昭和40年代の作品ではないかと思いますが、確かにその頃ウーマン・リブ【ウーマン・リブ(Women's Liberation)とは、1960年代 後半にアメリカで起こり、その後世界的に広がった女性解放運動のことをいう】と云う言葉が日本でももてはやされました。

今や女性は完全に解放され、むしろ女性上位の時代の観さえあります。専業主婦は少なくなり、この詩のお母さんのように主人を神様のように立てて、台所に立てこもるお母さんを探し出すのは困難な時代になったと思います。私が未だ十代の頃まで は、私自身も台所に入らせて貰えませんでした。「男が台所に入ったらいけない!」と窘(たしな)められながら育ったのは事実であります。

寺島キヨコさんがこの詩を詠むキッカケは、ウーマンリブ活動に共感していた友人か誰かが、「これからは私たち女性も台所にしがみ付いていてはいけない」とでも言われたことなのかも知れません。米沢先生の年代の方々は私よりも更にウーマンリ ブに抵抗感を持たれていたのだと思いますが、米沢先生は別に女性の地位を下に見て居られたのではなく、また、寺島キヨコさんご自身も鍋釜を下げたご自分を卑下されていたのではなく、仏法を聞いて、男には男の価値があり、女には女の価値があ り、役割や仕事に依って価値が変わるものでは無く、生まれながらに平等の命である事を知っておられただけだと私は思っております。

つまり、聞法を続けられていた寺島さんには阿弥陀経にありますところの、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(しょうしきしょうこう、おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう、びゃくしきびゃっこう)に象徴される教えが生活に生きてい たのだと思います。「青色の花は青色に光り、黄色の花は黄色に光り・・・」です。桜には桜の晴れやかな美しさがあり、菊には菊の格調高き美しさがあり、バラにはバラの華麗な美しさがあり、野に咲く花には野に咲く花の安らかさがあると云うことでしょう。

この詩は堂々とした実に自信に満ちた詩だと思います。

なお、この詩を詠まれる少し前に『歩いている』と云う、やはり「わたしは夫について歩いている。子供がよろこぶよう、夫がいいようにと・・・」と云う詩を詠まれています。次回にご紹介させて頂く予定です。

合掌ーなむあみだぶつ




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