心の詩ー柔軟心

米沢英雄先生

●詩−蝶―竹部勝之進

     蝶が飛んでいる
     軽やかに飛んでいる
     軽やかに飛んでいるから
     疲れないのだろう

● 米沢秀雄師の感想
花から花へ、蝶はかろやかに楽しげに飛んでいる。時々とまって翅(はね)をとじたりひら
いたりしているが、あれは疲れを休めているのではなくて、次の観光プランを案じてい
るのだろう。あんなに方々飛び回ったら、さぞかし疲れるだろうと思うのに、かろやか
に飛んでいるから疲れないのか。

われわれは直ぐにくたびれるなぁ。かろやかに動けないからだろうか。そりゃ蝶にくらべれ
ば万事造作が大型だからなぁ。それでも禅を極めた人とか、妙好人といわれるような人
は、どうも身軽に動いていられるようだなぁ。

信心というのはまた悟りというのは、あゝも身を軽くするものかなぁ。身が軽いというより、
身をひっさげている心が軽いのかもしれないなぁ。われわれも気がすすまぬ時には、か
らだもハキハキ動かんものなぁ。

禅の修行というのは、馬鹿になりきるのだというから、他人のいうことを気にせず、自分の
したことの効果も期待しないから身軽なのかもしれないぞ。
妙好人というのは、自分ほどの悪人はないと、まるで最高裁の判決でもうけたように言
うとるなぁ。人間がやる裁判じゃない、閻魔の庁の浄玻璃の鏡にうつった自分を見てい
るんだな。この鏡ときた日には、生れてこの方自分のやった一切、自分の知らずにやっ
たことまで、ビデオのようにはっきりと、しかも四方八方上下左右から写して保存され
てるので、逃げもかくれもないなぁ。上告も控訴もあったもんじゃない。文句なしだよ。

これでやられては、三千大千世界をもぶちぬくような傲慢不遜の、自惚れの鼻もへし折れざ
るを得んだろうなぁ。そこで身軽に動けるようになるんだろう。それでも煩悩のこやし
がきいて、またしても鼻が伸びてくるから、忘れぬように鏡の前に立ち通し、だからま
たしょっちゅう身軽に動き通しというわけか。

● 無相庵の感想
心の柔軟さが表の言動の柔軟さに顕われた人に出遇うことは残念ながら滅多にないように
思います。柔軟心を持った人とは、しなやかに人生を生きている人とも云えるのではな
いでしょうか。そう有りたいと私も思ってはいますが、程遠さを感じていると云うのが
正直なところでございます。程遠さと云うよりも、むしろ私の心はカチカチの硬直した
心のように思います。
それは、やはり他人から良く見られたい、損はしたくない、迷惑は掛けられたくないと
云う自己愛に凝り固まった心(硬直心)を持っているからなのでしょう。

竹部さんはご自分の硬直心を自覚されているから、蝶を見てこのような詩が湧き出て来たの
ではないでしょうか。

私は相手の硬直心は直ぐに感じ取りますが、残念ながら自分の硬直心にはなかなか気が付き
ません。冒頭で、私が柔軟心を持っている方に出遇うのは滅多にないと申しましたが、
それは、自分に柔軟心が無いから、その心が反射して、相手を判定しているからではな
いかと思います。

私の周りの人々が皆柔軟心を持って私を受け止めてくれていると思えた時に初めて、私の心
が柔軟心になっているのではないか・・・、そう有りたいものです。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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