心の詩ー無言の教え

米沢英雄先生

●詩−花―宮崎竜安

     人間が見ようと見まいと
     花は寂かに虔(つつま)しく咲いている
     私はその非人情にうたれて
     まぶたが熱くなった

● 米沢秀雄師の感想
わが国でただ花といえば桜をさすのだが、この詩の花は、桜ではなくて、存外路ばたの雑草ぐらいではなかろうか。
人間に認められたい、賞められたい、そんな心が花にあろうとは思わないけれども、おのれを誇示することなく、黙
って美しく咲いている、その心根にうたれたのだ。この場合、非人情というのは、我執がないことだろう。無心のこ
とだろう。

小杉放菴画伯に歌がある。みちのくの谷地(やち)の小沼のひつじ草 花咲けるかも人はみなくに=B小暗い森の中
の水面に、妖しくも美しい睡蓮が咲いている。自分は図らずも通り合わせて、その美しさを嘆賞したが、誰も通らなけ
れば、誰にも知られずに、ただ咲いて黙って散ってゆくだけだ。

それに対して、人間は何とさわがしい、自己顕示欲の凄まじい存在であろう。
みんなの視線を、自分一人に集めなければ、気がすまないのだ。伝教大師が、一隅を照らすもの、これ国宝なりと言わ
れたのは、カメラのライトをさかんに浴びる連中ではなくて、あたかも雑草の花のように、人に知られたいとの欲望も
なく、おのれに与えられた精一杯を咲き切って、心残りなく散ってゆく、そのような名もなき人々であろう。

私たちは、今日まであまりにも立身出世、抜け駆けの功名を、あせりすぎたのではないか。前に生れた者は、後からく
る者を導き、後に生れてくる者は前の者を見習い、これを続け続けて、やめないようにしたい。無数の迷える者を救い
尽くすために、という意味の言葉があるが、花のいのちの連続は、この世を荘厳し続けることで、無言で語っているよ
うだ。謙虚にして、この世を荘厳してやまぬ心こそ、信心と言われるものであろう。信の世界こそ、非人情の世界、そ
れを浄土と呼ぶのであろうし、これあって人間は生きられるのだ。

● 無相庵の感想
花は淡々と黙って美しく非人情に咲いて、そして淡々と文句も言わずに散ってゆく。それに引替え人間は日常生活に何
か文句を付けて騒がしく生きている。この詩の作者も我々と同じく、心騒がしく生きているに違いない。

しかし、そう云う自分を見詰める眼を持っている。花を見てそんな事を思う人は殆ど居ないだろうと思う。おそらく、
作者の宮崎さんも、米沢先生も花のように人生を淡々と生きれたらいいのにと云う想いを持たれていると思う。

しかし、やはりそうはいかないのだと思う。普通の人は、人間に感情がある限りはとても無理だと諦め、その壁に当た
って尻尾を巻いて引き返すのであるが、このお二人は、引き返さず、立ち止まって、「何故、淡々と生きられないのだ
ろうか?」と自問自答されたのだと思う。

払っても払っても消し去ることの出来ない自分の執拗な自我に茫然自失されたのだと思う。そして花や木や動物達の非
人情な振る舞いを含めた大自然から何度も同じ問題を突き付けられ、救いようのない自分に愛想を尽かしかけたその時
に、見放すことなく、自分を生かし続けてくれている大宇宙の働き(浄土門では阿弥陀仏と称する)に気付かされたの
ではないかと私は想像している。

まぶたが熱くなった≠ニ云う最後の一節から、多分、その気付き以降も自我は消失することなく、自我に出遇うと同
時に阿弥陀仏とも出遇いを重ねられ、慚愧と歓喜を同時に味わう生活だったのではないかと想像を逞しくしている次第
であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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