心の詩ー連続無窮

米沢英雄先生

●詩−いのち―宮崎丈二

     いのちは
     いのちを求める

     いのちを求めて
     花は咲く

     いのちを求めて
     人は生きる

     花は散る
     人は死ぬ

     だがいのちはただ一筋
     生死を一つに貫いて

● 米沢秀雄師の感想

草や木が生きているから花も咲くんだろうと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。彼らがいのちを求めて、いのちを
自分自身に確かめたくて、花となって咲きでるのだろう。花は、草木が自分を確かめ得た喜びなんだろう。

造花も結構美しいし、第一、水や肥料をやる面倒がなくていいのに、どうしてその面倒をあえてしてまで草木を育てるんだ
ろう。人間は生きものを育てることで、逆に自分の生きていることを確かめているんじゃないか。そうは言っても花は散り
、草は枯れ、人は死なねばならぬ。

そういう現実のものは死んでも、いのちそのものは決して死なないなぁ。生き代わり死に代わりして生き続けてゆくなぁ。
荘厳ないのちの歴史だなぁ。これを無量寿というんだろう。その荘厳さを無量光というんだろう。

人間のあさはかな分別が生み出した科学で、この歴史を中断してはなるまい。そんな権限は人間にはないはずだ。荘厳な歴
史を讃嘆するのが人間の分だろう。

かたみとて何かのこさん春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉≠ニ良寛はうたわれた。この人間の共同財産を、公害で傷めつ
くしてはなるまい。いのちには深い願いがあるはずだ。あまねくもろもろの衆生と共に安楽国に往生せんという願いが。花
も鳥も虫も魚も生き切れる世界を願うこころが。

● 無相庵の感想

いのち≠フ歴史とも云える『生命誌』に出遇ってから、米沢先生の心の詩≠ノ取り上げられているいのち≠テーマ
にした詩を探してみたら、『生命誌』が語るいのち≠フ永遠性、無窮性を詠んだ今回の詩を見付けることが出来ました。

無量寿・無量光は正に宇宙の悠久を仏教的に表現した言葉だと思いました。米沢先生が、「いのち≠ノは深い願いがある
はずだ」と仰っていますが、それも『生命誌』が語りたい『いのち≠生み育てていきたいと云う宇宙に遍く働く意思』
の事をではないかと思います。

また、「人間のあさはかな分別が生み出した科学で、この歴史を中断してはなるまい。」とも言われていますが、『生命誌
』は科学で細胞に詰めこまれたいのち≠フ歴史を情報として語り伝えるゲノム≠ノ行き着き、いのち≠フ永遠性に
いのち℃ゥ身が初めて気付いた物語でもあり、もし米沢先生が生きておられれば、科学に拍手喝采されるものと私は思って
います。

細胞は全て死にますが、細胞に刻まれた情報こそいのち≠サのものであり、そのいのち≠ヘ永遠だと云うことだと思い
ます。私はこの心の詩≠ノ『仏教』と『生命誌』が手を握り合った瞬間に立ち会った思いがしている次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ




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