現代の病理とその処方
フロム教授の限界

米沢英雄先生

日本は後進国なので、まだ上昇期を辿っておりますが、アメリカではもう消費文化の極点に来て、そろそろ疑問がもたれているようであります。先ほどのフロムが問題を提起しているのが、その証拠であります。 こうした学者でなくても、たとえば、ビート族と呼ばれる一群の若者が、旧来の制度風習に反抗して思い切った行動をするとか、はだしで、裸で歩くのが流行るとか、一面、禅ブームとして、東洋的傾向にあこが れるとか、そういう風潮が現れてきております。禅がどれだけ理解されているかわかりませんが、アメリカの消費文化が行き詰って、何処かに血路を見出そうと、もがいていることだけは、間違いなさそうであり ます。

ところで先ほどのフロム教授でありますが、このまま推移して行ったならば核兵器戦争が避け得たとしても人類は滅亡するというので、人間を非人間化から救うために、正義、真理、愛ということを考えねばなら ぬと申しております。資本主義経済機構は宗教さえも手段にしてしまうとも言うております。わが国の近江絹糸のようなものでありましょう。また結婚さえ、夫婦の愛情の結び付きではなく、ただ、有無相通ずる 便宜主義の関係にすぎなくなってしまうと申しております。この頃のセックスの遊戯化はこの現われでありましょう。

そこで、人間は血と土のつながり、つまり、民族的結合を超え、人類として結び合わねばならない。そして真に献身すべき対象を見出さねばならない。機械化して働くのではなく、創造的な喜びを知らねばならな いと、色々非人間化救われるための条件を列挙しているのであります。一々もっともでありまして、フロム教授の言われることが、もっともっと多くの人に伝えられねばならぬと思いますが、如何にせん、その言 われることが、程度が高い、条件が多すぎる。また極端に言うと、学説の域を出なくて、現実社会というよりも、フロム教授の説を読んで賛意を表したその人の上にも、具体化していくことが困難である。如何 にして具体化していくかというと、その方法が難しい。こうして壁にぶつかるのであります。

フロム教授の言われることは、誠にもっともである。にもかかわらず、これを現実化することが困難である。現実化することが困難であるということになれば、私たちは、人類は、フロム教授の予言の如く、平和 を抱いて滅びて行かねばならぬということになる。誰か滅亡を望むものぞ。

それではこの病いから快復する望みは全くないのでありましょうか。私は思う。これに応えるものこそ本願念仏の道ではなかったかと。本願念仏の道は昔からあった。そして今日まで、有名無名の幾多の個人を救 うてきた。今や本願の念仏の道は、そういう少数の個々人でなく、人類の多数を、全人類を対象として働くべき機会が到来したのでないか。本願が教え給う、「普く諸々の衆生と共に安楽国に往生せん」、この願 いを、一人一人の、そして全人類の願いとしなければならぬ時がきたのではないか。

この願いを、一人一人の、そして全人類の願いとすることによって、人類は、フロムの言う平和による滅亡から救われ、もしこれを願いとしなかったら、それこそ破滅以外にない。この願いをとるか、とらぬかが 、人類の生きるか死ぬかを決定する、最後の場所ではないかと。しかも、フロム教授の救いの道は、徒らに(といっては失礼であります。懇切丁寧を極めるというべきかもしれないが)煩雑、しかも、一般人にア ピールする力が弱く、しかも、その望みがかなえられる見込みさえない、単なる提案と警告に終わっている。

本願の念仏は、願いであると同時に、それは成就されてある。成就されてあるということは、それに依ることによって、フロム教授の不安が解消されるということである。フロム教授の希望が確かにかなえられる ということである。しかも、複雑な思惟、論議、手続き、実践を必要とせず、ただ念仏する、それだけで解決するという本当の話なのである。精神分析の大家さえ、単なる提案、警告に終わっているのに、昔の爺 さん婆さんを眠らしてきた、南無阿弥陀仏に、人類を滅亡から救う力があるかと、若い方々から疑われることでありましょう。もっともである。今日まで念仏は見くびられてきた。そんな力が念仏にあろうとは思 われていなかった。せいぜいが老人を楽しく死なせる道、うまくいって、病気で悩んでいる者の救済となるくらいのことと誤解されてきた。

これは明らかに誤解であります。誤解は、誤解された念仏の側にあるのではなくて、誤解して来た人間の側に責任があるのであります。誤解せしめてきた指導者にあるのであります。せっかく威力をもった南無 阿弥陀仏を、手をとり足をとり内陣へと閉じ込めて、力が発揮出来ないようにしてきた責任者が、この辺にもたくさんおる。しかし、いよいよ時代が来た。本願の念仏が世に出る時が来た。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

無相庵の感想:
米沢先生は人類が罹っている現代の病いから救うには、「本願の念仏しかない」と断言的に言われたことに、断言的であるところに少々驚いた次第です。勿論、浄土真宗のお寺での法話でしたからでしょう。 私は逆説的に仰ったのではないかと思います。否、逆説的ではなく、はっきりと『本願の念仏、つまりは親鸞の念仏』には、現代人を救う教えがあるにも拘わらず、親鸞聖人に続く後世の本願寺の指導者の間違った教化方針に依り、 念仏が単なるおまじない≠ノ貶められてしまったとまで言われているのです。
何故、本願の念仏に現代の人類を病から救う力があるかは、これからの法話に示されるものと思います。




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