現代の病理とその処方
驕慢に気付く

米沢英雄先生

それは人間の非人間化という、人類にとって、最も痛みの少ない、しかも恐ろしい重病にとりつかれた現代が、ひそかに本願の念仏を呼んでいるのであります。誰も、本願の念仏を呼んでいるとは思うていない。 他の方便なきかと、心ある人々は苦労していられる。
しかし、ないのであります。今せっかく、他の方便を探して苦労していられる方は、やっぱり本願の念仏以外になかったという最後の断定を確実にするために苦労なさっているのであると申しても、過言ではない のであります。これは時が来た時に証明されるでありましょう。

しからば、本願の念仏、南無阿弥陀仏という簡単なものが、いずれもが困難とする、この現代の病いの治療に、如何にして役立つというのであろうか。
本願の念仏こそ現代の病いの唯一の治療法であるという第一の理由は、多くは病いに対して対症療法として、頭痛・腹痛なら鎮痛剤、発熱なら解熱剤というような治療法をするものであります。本願の念仏は、そう した対症療法ではない。対症療法は現在ある国連のようなものである。役に立ちそうにみえて、その実少しも解決になっていない。念仏は対症療法にはならないが、病いに対して根底的に応えるものであります。

これが特徴であります。一見誠に縁遠いように見える、それが実は根底的に応え得る所以であります。根底的に応えるというのはどういうことか。病いの根本を明らかにするのであります。多くは病いの症状を見 て、深く考えずに、その現象的な病状を何とか始末しようとする。勢い姑息的な手段が廻らされる。これは癒したことにはならない。治癒をかえって遅らせるにすぎません。暫くして症状は更に激化して現れます。 病いの根がよくわかっていないからであります。

あまり簡単に言い切ってしまいますと、嘘のようにみえますが、病いの根本は、実は近代以降増長してきた人間の驕慢心にあるのです。化学の発展により技術を獲得し、自然に改造を加え、人間の必要とするものを 随意に造り出せるようになって以来、人間は人間自身に大いに自信を得てきました。自信をもつということは、人間にはなくてはならぬ。これあってこそ苦難に耐えて、人間の生き得る力とさえ考えられております が、実はこの自信のほどが、恐ろしいのであります。
技術の進歩と共に、一方で人間の驕慢心が知らず知らずの間に拡大していって、この眼に見えぬ悪徳が今や最大限に膨張しているのです。これが病いの根本であるにもかかわらず気付かれていません。驕慢心が人 類の命取りになろうとしているのであります。奢る平家久しからず、個人に言われることはまた人類全体にも当てはまるのであります。この驕慢心が粉砕されねばならない。むしろその前に、病いの根本が驕慢心で あることに気付かねばならない。この簡単な気付くということが、容易でありませぬ。

人間にとっては、自分自身が最大の盲点でありますから。今これが粉砕されねばならぬと申しましたが、これがまた容易に粉砕されぬのであります。切りつけても切りつけても、ヒラリヒラリと体をかわして、容易 に参ったとは言わぬのであります。簡単に参ってしまうものなら、自信とも言われますまいが、これについては後刻また申し上げましょう。

第二の理由は、本願の念仏は、人間の本質をよく見ぬいているということであります。現代と申しましてもこれを構成しているものは、一人一人の個人であります。時代の病いはまた、何分か程度の差こそあれ、個 人の上にも病状を示しているのであります。その個人の本質をはっきり見極めていくことが、最大の治療法である所以であります。敵を知り己を知りて百戦危うからず、という言葉もあるではありませんか。人間の 本質を見極めていることは、どんなことにも迷わされない根本であります。
本願の念仏では、人を罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫、煩悩具足の凡夫と見極めました。人間に対してすこぶる侮辱的な言葉であります。しかし、この侮辱的な言葉が実は最大の新設なのであります。丁度病いを癒すの に、痛いメスを加えるようなものであります。本人は望まぬでも本当に本人を癒してやろうという親切心をもったら、可哀相でも、否、可哀相なれば是非とも、一時は苦しんでも、思い切った方法をとらねばならな いのと同じであります。

このレッテルを額にはりつけて、はりつけたレッテル通り寸分間違い人間でありますと、見えざる命名者の前に頭を垂れ得ることが、治療への第一歩であるのです。地上の人間が少ない頃は、わりと人間は純朴なも のであります。人間が増えて生存競争が激しくなりますと、人間は次第にずる賢くなっていきます。今日では、山家(やまか)とか海岸の居住者も、街との交通が頻繁かつ、容易になってきましたために、しだいに 都会化してきて、神の子、仏の子でなくなってきました。いわゆる末法濁世となってきたわけであります。

人間はすべて、いわゆる擦れれば悪くなる素質をもっております。純朴なことは尊いことではあるが、誇ることは出来ませぬ。縁があれば汚れるからであります。汚れるのはハンカチばかりではない、外務大臣ばか りでない。素質をもっているものが縁に会わなかったというだけで、汚れたもの(当時の外務大臣藤山愛一郎は汚れたハンカチと言われた)を嘲(あざわら)うことは出来ない。縁に会えば自分でも汚れるものであ るという、人間の本質を悲しむべきでありましょう。こういう人間の本質をつかまえて、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫といわれたのでありましょう。

この人間そのものに対する勤務評定が、今日ほどぴったり当てはまることはあるまいと思われますのは、近代科学の勃興以来、人間が己の頭脳に非常な自信をもってきまして、人間の知恵によって生活環境を改造改 善出来ると信じて、これに邁進していることであります。確かに人間の知恵によって、文化は面目を一新いたしました。しかし人間のなすことには、いい一面があると同時に、影の形に添うが如くに、一面には悪を 生んでくるものであります。

人間の為すことには徹底した善、徹底した悪というものはないのであります。しかるに、近代科学は善ばかりであるかの如くに誇るところに近代以来の人間の罪悪深重が、煩悩の深さがあるのだと思います。つまり 極度に発達、膠着(こうちゃく)せしめられた近代的自我という隠然として強力な存在が、罪悪深重・煩悩熾盛の正体なのであります。
自我は個々人が昔からもっていました。しかし、これが今日ほど強力に発揮せられていることはなかったようであります。これは押さえようとして押さえ得ない、ひっこめようとして、ひっこめることの出来ない、 ぬきさしならぬものであります。しかし、この始末し難いものが始末されぬことには、現代は救われないのであります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ

無相庵の感想:
自分の驕慢にも他人の驕慢にも気付かないと云うところが驕慢の怖さだと思います。ここ十数年の世界の危機的状況は、我々人類の驕慢が生み出した世界でありましょうが、その根本原因(驕慢)に気付 かない限り、人類に安心と安全はもたらされないのだと思います。米沢先生がご存命ならば、今の日本の混迷ぶりにも全く同じことが言えるのだと仰るに違いないと思うことであります。、




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