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唯識の世界


9.素質・性格と阿頼耶識の関係

前項で、阿頼耶識は現代科学がほぼ解明した感があるDNA或いは遺伝子に匹敵するものであるかも知れないと申し上げました。阿頼耶識=遺伝子ではないでしょうが、唯識が考え出した阿頼耶識の中に遺伝子的なものが含まれると考えても決して間違いではないと思います。

さて、人間には生れ付きの素質や性格があると言われていますが、この素質や性格と阿頼耶識との関係はどうなるでしょうか。人間の性格も素質も実に千差万別である事は誰しも否定出来ないと思います。明るい性格と暗い性格、おっとりした気質とセッカチな気質、几帳面とルーズ、人懐っこい子と人見知りする子もいます。運動神経が優れた人とそうでない人、歌が上手い人と下手な人、達筆と悪筆、それに特に何も得意なものが無い人だっていますが、これは生れ付きでしょうか。唯識が人間の素質や性格についてどう考えていたかと言う事に言及した書物を私は今のところ見付けていませんが、応用的に考えますと、生れ付きと言う考え方を唯識はしないと思います。

唯識では阿頼耶識に溜めこまれている種子(しゅうじ)そのものは善でも悪でもないと考えています。 元々良い性格と悪い性格があるとはしないのです。どちらとも言え無いと言う意味で『無記(むき)』と称しているようです。素質・性質と云うものも、良い悪いではなく、色々な能力が種子として阿頼耶識に溜めこまれており、それが縁によって、即ち、生まれ育った環境、両親の育て方、友達や先生との縁や、その他無数の縁によって、素質や性格として芽吹くものだと言うことではないかと思います。

私達夫々の個人は無数の祖先を持っています。例えば、室町時代の西暦1500年まで遡っただけでも、個人個人には約13万人の親達がいます。13万人の遺伝子を受け継いでいると考えてよいでしょう。これほど居れば、中には、世間から尊敬を集めた素晴らしい人物も居たでしょうし、極悪非道の人物も居た事でしょう。運動能力に長けた人も居たでしょうし、歌手のように歌の上手い先祖も居たことでしょう。私達はあらゆる可能性を秘めた阿頼耶識(遺伝子)を受け継いで、この世に生を受けたはずであります。ただ、例えば運動神経と言う神経が他人よりも秀でているとか、音感が優れていると言う個人差は多少あるのかも知れません。

譬え話ではありますが、イチロー選手のような運動能力を受け継いで生まれて来た人は沢山いると思いますが、たまたま育った環境と云う縁により野球とめぐり合い、そして色々な指導者との出遭いと云う縁の重なりにより、素質が開花したと見るべきではないかと思います。イチロー選手よりも高い運動能力を受け継いでこの世に生を受けた人は沢山いるはずですが、育った環境により、全く運動に縁がなく自分の運動能力を知らないまま人生を終える人も多いのだと思います。

人間は、個人個人に素晴らしい能力が受け継がれており、可能性に満ち満ちていると思われますが、無数の縁によって、兇悪殺人犯ともなり、スタープレーヤーにもなるのだと、唯識は語りかけているように思います。そして、だからこそ、自分の意志で善き縁を選び取り、仏となる種子を阿頼耶識に薫習努力して、生まれ持っている仏性を悟りと言う花に育て咲かせようと言うのが、唯識の阿頼耶識に関する見方ではないかと思います。

次の項で、上述した『阿頼耶識は善か悪か』に付いて、更に考察したいと思います。

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