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唯識の世界


23.随煩悩の検証―I(驕(きょう))

10.驕(きょう)

唯識で使用されている『きょう』は、リッシンベンですが、パソコン文字がありませんので、同じ意味の『驕』に致しました。

月曜日に正信偈の勉強をしていますが、今週の月曜コラムの中で、『信心を得るのが難しいのは、邪見と驕慢の兜を脱ぐのが難しいからである』と云うことに言及しておりますが、その驕慢の『驕』であります。

本当に実力があれば、おごる事はしないのでありますが、中途半端な実力の場合は、どうしても虚勢を張りがちになるのが、哀しい凡夫の実態であります。実力通りの自分を知って貰えばそれでいいはずなのに、実力以上に見せたいと言う心が働いた事は、私も沢山ありました。スポーツでも、勉強でも、会社経営でも、全ての面で、『驕』の煩悩を経験しております。

太田久紀先生の説明:
『法相二巻抄』には、
我が身をいみじく盛なる者に思て、栄えおごり誇り、恣(ほしいまま)に高ぶる心なり。
自分をおごり高ぶる<こころ>である。驕傲(きょうごう)の思いである。

『瑜伽論』には、「無病驕」「少年驕」「長寿驕」「族姓驕」「色力驕」「富貴驕」「多聞驕」の七つがあげられている。

「無病驕」は健康をおごること。自分の健康におごって病身の人を悪くいったりする。健康であることはいいことだが、病気の人への暖かい思いやりを欠くことがある。

「少年驕」は、若さへのおごりだ。若さは時に残酷なもので、老人を厄介がったり邪魔物視することがある。無意識裡にそういう気持ちを持っている。老がひとときの位であるように、若さもまた一日の栄にすぎない。おごるべき理由は何もないのに、人はなぜひとときの己れをおごるのであろうか。若さを大切にすることと、おごりとは基本的に違う。

「長寿驕」はその反対で、長寿をおごることである。「いま時の若い奴に何がわかるか」「若い者は苦労が足りない」などなど、年寄りは年寄りでおごる。

「族姓驕」は、自分の氏素性をおごることである。『瑜伽論』のもともとの意味は、古代インドのカースト制度(四姓制度)を直接にはさしたのであろうが、今の日本では、家柄などに該当するであろう。仏陀は「その人がどこに生まれたかによってその人の氏姓がきまるのではなく、その人の行為によって氏姓がきまるのだ」という意味のことを話しておられるが、その通りに、人の価値は、その人の生き方によってきまるものであるのに、生まれをおごる気持が、どこかにひんでいたりするものである。

「色力驕」は、セックスのおごりであろうか。

「富貴驕」は、文字通り、財力のおごりである。富める人間の貧しき人への蔑視である。

「多聞驕」は、広い意味では博学多才のおごり、狭くは、仏法を沢山聞いたことへのおごりである。仏教の話しを聞くことは、おごりたかぶる自己の打破といってもよい。修行をすればするほど、熟すれば熟するほど謙虚な人間になるのが仏道である。ところがそれが<驕>に変わるのである。何の為の仏教の勉強かわからない。おごるための聞法など、何にもならない。

こうしてみてくると、<驕>の気持というものは、何からでもおきてくる。若ければ若くておごり、歳をとればとったでおごり、おごるなという話を、聞けば聞いたでおごる。なんとも凡夫のやっかいさを見せつけられる思いである。『成唯識論述記』には、凡夫は、仏の教えを聞いてさえも、驕を生じるといっている。<貪>根本煩悩が根元にある。

ところで、この<驕>の心所と良く似たのに<慢>というのがあった。六根本煩悩の一つにあった。驕慢という言い方はよくみられる。<驕>と<慢>とは同じなのか、それとも違うのか。『倶舎論』によると<慢>の方は、他人と自分を比較校量して、あいつに比べて、おれのほうがえらいと思うことであり、<驕>のほうは、他との比較の意識が少なく、とにかく自分の若さや知識や、自慢すべきものを自慢し、思いあがるのだと説明されている。 そうすると、その二つがくっついた驕慢は手のほどこしようがないことになる。

『明恵上人遺訓』の言葉。
人、常に云く、物をよく知れば驕慢起こる、という事心得ず。
物をよく知れば驕慢こそ起こらね。驕慢の起こらんは、よく知らぬにこそ云々。

物をよく知ると驕慢心が起こるものだと世間ではよくいうが、それはおかしい。本当にものを知っていたならば驕慢は起こらない。驕慢の起こるのは、よく知っているようだが実は、本当には知っていないということである。

もう一つ。
「驕慢というものは鼠のようなものだ。神聖な道場にももぐりこんでくる。私(明恵上人)は、それで驕慢を二つに分けて考えている。一は、自分の知らぬことがあるのに、驕慢心をもって人に聞かないと、結局は自分が損をしてしまう。また、逆に自分より劣った人に驕慢心を持ってみたところで、何にもならない。驕慢というものは、ちょっとの才能があると起きるものだが、考えてみると、いずれにしてもなんにもならぬことだ」
これも『明恵上人遺訓』中の言葉である。

―引用終わり

他人の自慢話ほど面白く無いものはありません。『驕』という煩悩の為せる話だとして聞いて上げる心の余裕を持ちたいものですが、不愉快な気持になるものであります。多分これは、自分自身がしっかり持っている『驕』と言う煩悩を見せ付けられていることが気に障るからだと思われます。

実力通りの自分を知って貰えたら、随分と気楽に人生が渡れるのではないかと思いますが、『驕』と云う随煩悩は、向上心を生み出す根本煩悩の『貪(むさぼり)』を源にしていますから、間違いますと、精進を忘れかねません。やはり、煩悩を否定するのではなく、自分の煩悩をしっかり把握することこそが大切なのだと思います。

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