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唯識の世界


26.中随煩悩の検証―A

慙愧は、恥じ入ると言うことですが、慙と愧では、何に対して恥じ入るかが違うということを前回のコラムで申しました。

法相二巻抄には次のような説明があります。

<無慚>は、
身にも法にもはじずして、善根をかろくして、もろもろの罪を作る心なり。
<無愧>は、
世間に恥じずして諸罪を造る心なり。
恥じ無き人と申すはこの無慚無愧の増せる人なり。
太田久紀師の説明
<慚>は「身にも恥じ、法にも恥じ」といわれていたように、いわば内面的な羞恥心である。自己自身の良心と、法=真理に対して、恥じを感じる<こころ>の働きである。<無慚>は当然その反対であるから、真理に対しても、己れの良心に対しても恬(てん)として恥じない。
<愧>は、世間をはばかり、人の眼をはじることだから、<無愧>は、世間体も人の思惑も気にしない心作用になる。他人の思惑や評判など一向に苦にしないというと、確固たる見識や信念を持つのとちょっと似ているが、根本的に違うのは、底に自我中心・利己性がひそんでいることである。<無愧>にあるのは、自分を軸とした勝手な行動を、自己弁護し肯定し、それへの反省を欠き、己れの汚れを自覚しないことである。

これを要するに。<無慚><無愧>は、自己の良心に対しても、真理に対しても、世間に対しても、己れの未熟をはじない図々しい<こころ>の動きである。 <中随煩悩>と呼ばれるのはこの二つの心所のみであり、悪の<こころ>の底に一貫して底流のように流れている。<貪(むさぼり)>にも<慢(あなどり)>にも、<我見>や<偏見>にも、その底には厚顔無恥の<こころ>が流れているのだ。

『涅槃経』「梵行品」に、

慚愧なき者は、名付けて人となさず とある。
また、『遺教経』は、お釈迦様の最後の説法であるが、その中にも、
慚恥の服はもろもろの荘厳に於いて最も第一となす。・・・もし慚恥を離すれば、即ちもろもろの功徳を失す。有愧の人は即ち善法あり。もし無愧の者は、もろもろの禽獣に相異なること無けん。

お寺にいくと、「回向返照」という文字に出会う。外に向けられた光を内に向けるということであるが、光を内に回(めぐ)らせば、おのずから<慚><愧>の思いが湧きあがってくるはずだ。回向返照を忘れた時に、<無慚><無愧>が跋扈(ばっこ)するのである。<無慚><無愧>の<こころ>からは、回向返照の自己はあり得ない。懺悔も生まれない。

●あとかぎ
現代日本でも、「恥知らず」と言う批判は良く耳にする言葉です。しかし、この「恥知らず」は、多分、「世間の眼を無視して、あのような事がよく出来るな」と言う意味合いが強いと思われます。しかし、一方、最近の政治家や著名人が疑惑を持たれた時や逮捕に至った時に、「天地神明に誓って、そのようなことは有りません」と言う言葉もよく耳に致します。また、最近では死語になりつつありますが、私達の幼い頃までは「こんな事では、ご先祖様に申し訳無い」「お天道様に恥ずかしい」と言う言葉もございました。

しかし、日本人の感覚から恥じを厭うと言う感情が確実に失せつつあることは間違いないと思われますが、如何でしょうか。上記された経典にもありますように、恥じる気持ちを失えば、最早、それは人ではないというのは真にその通りだと思います。

ルールさえ守れば何をしてもよい。法律に抵触しなければ恥じる必要は無い、法律の解釈上、許されて来た行為だ、現行法制上、何も問題は無いと云って解散総選挙に打って出た小泉さん、そして更に極最近話題の「村上ファンド」による、阪神電鉄・阪神タイガース買収問題は、改革を唯一の正義とし、無慚無愧を過去の思想とする亡国の論理が日本を席巻している状況を如実に示していると、私は思います。

しかし問題は小泉さんや、村上さんだけのものではなく、私の心の底にも、この無慚無愧の心が常にあると言うことであります。他人事ではないのだと、唯識は語りかけてくれているのであります。そう言われれば、涌き出て来る煩悩は、慚愧と言う関所)を簡単に破りまして、私の言動に姿を現しています。他人には言いつたえるには憚(はばか)られる、無慚無愧の自分に出会います。

救いはただ一つ。親鸞聖人が「無慚無愧のこの身にて・・・」と和讃に詠み遺して下さっていることでしょうか。仏様に照らされた親鸞聖人のお心は後世の私達の心を照らし出し、慰めても下さいますね。

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