←HOMEPAGE

唯識の世界


31.大随煩悩の検証―放逸(ほういつ)

広辞苑で「放逸」を調べますと、「わがままなこと。勝手気ままでしまりのないこと」とあります。「懈怠」と少し似ているとは言いますが、懈怠は、「本来はこうあるべき」と言う善悪、正邪の判断は出来ている上で、怠けることだと思いますが、「放逸」は、救いようが無く、凡夫とも言えない人格の人間の状態を言うのだと思います。

太田久紀師の解説:
『法相二巻抄』には、
罪を防ぎ善を修する心なく、恣(ほ)しいままに罪を作る心なり。
と説かれている。
<懈怠>と<放逸>とは、非常によく似ていて分かりにくいが、その違いをはっきり区別してみると、<懈怠>のほうは、善いこと為すべきことを怠りなまけること。<放逸>のほうは、善悪の判断も行動もだらしないことだといってよいのではあるまいか。 『成唯識論』では<懈怠>に対して「懶惰(らんだ)」、<放逸>については「縦蕩(しゅとう)」という説明がついている。 <放逸>のほうは、特にそういう<こころ>の作用が独立してあるわけではなく、悪を防ぎ、善を修することにだらしないのである。 この<懈怠>と<放逸>についての心所については、<煩悩>として認めない学派もあったようであるし、種々な議論の余地もあるようであるが、唯識では、<懈怠>は、独立した一つの煩悩として認める。が<放逸>は、止悪修善に背く総体的な仮の動きとする。独立した煩悩とは考えていない。
無精とか、横着ものとか、ものぐさとか、そこにはそこなりの間の抜けた人間の面白さがあるものだ。私はそういう人が好きだ。しかし、一番根本の生死のところでは<懈怠><放逸>があってはならぬのである。

―引用終わり

<放逸>は、自分とは関係ないように思いましたが、私はすべての問題、或いは選択を迫られた時に、きっちりと善悪・正邪を判断していない事に思い当たりました。むしろ逆に自己の損得や苦楽を瞬間時に判断して放逸に流されているのではないかと振り返らざるを得ません。

という事は、懈怠も放逸も、自分の言動に現れているのではないかと、反省させられました。 そして、その懈怠と放逸の上で貪り心も起こり、愚痴も起こり、怒りも起こると言う凡夫としか言いようの無い日常生活になってしまっている事に愕然とするのでありますが、しかしなお、放逸を免れない自己をどうすればよいかと・・・・・・。

HOME      目次