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唯識の世界


36.悟りに向かう道−はじめに

私達人間の心の病とも云うべき根本煩悩・随煩悩に付きまして長々と勉強して参りましたが、この病を克服して、苦悩に満ちた娑婆(しゃば)世界を安らかな世界に転換する、即ち悟りを獲(え)るにはどのような修行をすればよいのでしょうか。唯識は、その修行には5段階あるとしています。

第一段階・・・・・思糧位(しりょうい)自分の向上に資するあらゆる修行を積む段階
第二段階・・・・・加行位(けぎょうい)唯識観を集中的に究め尽くす段階
第三段階・・・・・通達位(つうだつい)唯識の真理が本当に証(わか)り自分自身が<空(くう)>の真実になる段階
第四段階・・・・・修習位(しゅじゅうい)仏教が身にそなわるための段階
第五段階・・・・・究竟位(くきょうい)仏道修行の到達点
これら五段階の修行に付いて勉強して行きたいと思いますが、その前に、悟りという事に付きまして復習・考察しておきたいと思います。
さて、悟りとはどういう心の状態かと問われました時、皆さんはどうお答えになるでしょうか。解っているようで、いざ言葉で説明する段になりますと、意外と言葉に詰まってしまいます。広辞苑では、「迷いが解けて真理を体得すること」或いは「煩悩を脱して涅槃を得る」と説明されていますが、これも甚だ抽象性を免れません。悟った後の心はどうなるのか、現実の人生を歩んでいる私自身の心は悟った後にどのような状態に転換するのか具体的な説明が欲しくなります。

しかし、この具体的な説明はなかなか難しいと言いますか、実際に悟りを開いた人でなければ具体的説明は出来ないと言うことであります。そして、「私が悟りを開いた経験から説明すると、悟りの内容は斯く斯く云々(かくかくしかじか)だ」と説明される方がいらっしゃったと致しましたら、その語られた内容は最早悟りではなくなると言う矛盾が生じてしまうと言う厄介なところがあります。

しかし唯識は、悟りの事を明確に定義しているように思います。太田久紀師が「<識>から<智>への転換」と言うご議論の中で、次のように述べられています。

太田久紀師の解説:
私たち凡夫の<こころ>が、智慧に開けることを<転識得智(てんじきとくち)>と唯識では言う。<転迷開悟(てんめいかいご)>とか<悟りを開く>とか<信心決定(しんじんけつじょう)><安心決定(あんじんけつじょう)>とかいわれる仏道の転換のことであるが、<第八阿頼耶識>が智慧に変わったのを<大円鏡智(だいえんきょうち)>といい、<第七末邦識>が変わったのを<平等性智(びょうどうしょうち)>、<第六意識>が変わったのを<妙観察智(みょうかんさっち)>という。<前五識>が転換すると<成所作智(じょうしょさち)>というのである。

ここであらためてまた、仏教の要であるのが<智慧>であるのを、<こころ>に刻み付けておかねばならぬのだが、今の場合、特に注意しておきたいのは、その転換の時期についてである。それを唯識では、

妙観・平等、初地分得       大円・成作、唯仏果起

という。
<妙観察智>と<平等性智>は、初地で一部分会得されるが、<大円鏡智><成所作智>とは、修行の完成した仏の位に初めて働きはじめるというのである。<初地>とは、仏教の真理が本当に深く解ったという段階である。真理が解る、それを<初地>あるいは<見道(けんどう)><通達位>などという。

「真理が解る」ということは、別の言い方をすれば、<無常><無我>のことわりが解ることだから、思索したり思量する働きの<第六意識><第七末邦識>が、<智慧>に開けることを意味する。

だが、人間は、ものの道理がわかったからといって、全存在的に転換していくような単純なしろものではない。身体に浸透し、精神を浸食している悪習は、急に抜けるものではない。つい先日も、煙草を病気のためにやめて十年経つという人が、今でも夢の中で吸うことがあるといっていた。十年経ってもその愛着が<心>の底によどんで存在し続けているのである。煙草を吸ってはならぬと言う理(ことわり)はよく承知し、実際吸わなくなっていても、身体という存在はそれを忘れ得ぬのだ。

そして、その事実として存在する自分が、根源的に転換するのが仏果位であり、根源的に自分が変わるのだから、そこで<阿頼耶識>が<大円鏡智>に転識得智するというのである。自分が<こころ>の底から全人格的にすっかり変わるのである。そして、その時だ。はじめて見る世界が変わる。見えるものや聞こえるものが全部変わる。自分が変わるのだから、<前五識>の認識する世界もまた変わる。いや、そこまでいかぬ限り、見える世界は変わらないのである。自分で変えようと努力してみても、変わるものではない。自分が変わらぬ限り、外界も変わらない。自分が変われば、たくまずして、おのずから変わるのである。それを、<唯仏果起>というのである。

<前五識>は誤魔化せない。正直に、そのまま自分が露骨に顕現する領域だということを、この転識得智の段階づけは語るのである。

―引用終わり

上述が悟りに関する唯識の結論であると致しますと、煩悩を滅して後に初めて悟りが開けると言う事になり、浄土門で言うところの「煩悩を断ぜずして悟りが得られる」と言う立場とは全く反対の立場と言うことになりましょう。

涅槃にも、体が滅して後に完全な涅槃が得られるという考え方と(無余涅槃)、生きたまま涅槃に至るという考え方(有余涅槃)があり、お釈迦様は、35歳で有余涅槃に入られて、80歳で無余涅槃に入られたとする考えがありますが、上述の唯識の悟りは、有余涅槃の事だと思います。従いまして、親鸞聖人が如来と等しい位として定められた「正定聚の位」は当然有余涅槃だと考えられますので、やはり、この世における凡夫の悟りに関する考え方は、唯識と親鸞聖人とでは正反対のものと断じざるを得ません。

勿論、どちらが正しい考え方だと言うことではないと思います。親鸞聖人は、唯識を勉強されまして、自分はとても唯識の説くところの悟りには到底至れない煩悩具足の凡夫≠セと認識されたのではないかと勝手な推測をしております。

地球上に生きている動物にも色々な段階があり、また人間におきましても、実に色々な段階が見て取れます。畜生にも劣る仕業をする人間から仏様のような愛・慈悲を持たれた方も居られる事は事実であります。現にお釈迦様が実在されましたし、キリストが、シュバイツアー博士が、マザーテレサが実在されました、そして、その他無数の聖者が現に実在されています。

唯識が説くところの、生きたまま煩悩を滅して悟りの境地に至られて、実際に人々の救済活動に身を捧げられた方がいらっしゃることもまた事実でありますが、しかし、親鸞聖人のように、私と同じ凡夫の生活に身をおかれて、煩悩具足を感得されながら、しかし悟りを求められ、法然上人という善知識にも遇われて、そして最終的には『どうしても救われない「罪悪深重の凡夫の親鸞」を救って下さるのは阿弥陀仏の本願しかないのだ』と確信され、その本願を信じて念仏する道を死ぬまで歩み続けられた方もまたいらっしゃいましたし、現に実在されていらっしゃると思われます。

私なぞは、美味しそうな料理やお酒の誘惑に極めて弱く、生きている限りこれが滅しそうにはありません。テレビなどで、自分好みの女性を見掛けますと、ついつい心が動きます。どんな女性にも同じ気持ちで接しられる高等な人間ではありません。これも恐らく生きている限り滅しそうにありません(だから、善導大師や法然上人は、目を上げて女性を見られなかったのだと・・・)。煩悩具足が死ぬまで続き、生まれ変わるということがありましても、簡単には払拭出来ず、唯識の説く修行の第五段階には到底至り得ない人間性だと思います。

親鸞聖人のご著書には直接的に唯識には触れられていらっしゃらないようでありますが、冒頭に示しました唯識の修行段階を真摯に進まれたが故に、浄土門でしか救われないご自身に出遇われたのだと、私はそのように思っております。

だからこそ私も真剣に唯識の悟りへの道を学び進みたいと思っている次第であります。

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