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唯識の世界


40.悟りに向かう道−(4)

 第36項で、悟りに向かう修行の段階には5段階あると説明致しました。確認の意味で、再び修行の5段階を記載しておきたいと思います。

第一段階・・・・・思糧位(しりょうい)自分の向上に資するあらゆる修行を積む段階
第二段階・・・・・加行位(けぎょうい)唯識観を集中的に究め尽くす段階
第三段階・・・・・通達位(つうだつい)唯識の真理が本当に証(わか)り自分自身が<空(くう)>の真実になる段階
第四段階・・・・・修習位(しゅじゅうい)仏教が身にそなわるための段階
第五段階・・・・・究竟位(くきょうい)仏道修行の到達点
 『資糧位』では、何よりも仏法に対する信を得る事と、そして、むやみやたらと肉体を苛める修行に励むのではなく正しい知識と智慧を身に付けねばならない事、そして信を持続する為にも『善友』の存在が望ましい事を申し述べて参りました。

『資糧位』では、漸次ものの道理も分かり、<こころ>も綺麗になって行きますけれども、それは表面だけであると唯識は考えます。縁に触れれば忽然と性癖が現われる、生半可な気分や修行や信心で人間の持つ諸問題が解決されるなどという安易な思いを唯識は拒否するのであると、太田師は説かれています。  『資糧位』では、自分をどの方向に向かって歩むのかを決めるだけの段階であり、悟りへのホンの入り口だと言うことだと思いますが、『資糧位』では、知識として『唯識観』を習得する一方で、行もそれなりに必要だと申します。

頭でっかちでは駄目だと言うことは極々理解出来るところであります。

太田久紀師の解説:
解脱上人貞慶(日本中世の唯識の学僧、1155〜1213年)の『修行要鈔』に、「出離の最要は何か」という問に対して、「自宗(法相宗)の意は、ただ唯識観である。たとえ心がそれに定まらなくとも少しずつでもそこに心を注いでいけ。その浅深は人によって違うだろうが、それぞれの分によってその観を深めていくことが肝要だ」と述べている。智慧を磨く<唯識観>が根本であることは、唯識を学ぶものの忘れてはならぬことであろう。

<福徳行>は、それ以外のすべての修行だ。「徳を積む」修行である。人間には、頭の冴えや良し悪しだけで評価できぬ別の面がある。数字にも還元できぬし点数化も不可能だが、とにかく徳のある人間というものがある。反対に頭はよくても人間的貧しさを感じさせる少徳の人間というものがあるものだ。徳があるということは、どことなく豊かなのだ。福々しいふくらみというのだろうか、厚みというのだろうか、安心のできる大きさを備えているものである。寄らば切られるのではなく、寄らば救われるのである。

智慧の鋭さに対する「ぬくもり」の修行とでもいえばよいのだろうか。人をいたわり、人を許し、人を助ける、そういう修行が<福徳行>である。もちろん、人を許し助けるには、何を許し何を助けるのかをきちんと見定める、それ相応の<智慧>がなければならない。だが、それだけではいけないのだ。先の<廻向(えこう)>――「めぐらしむける」修行は、そのことをいうのである。

鉄眼禅師(1630〜1682年)は大蔵経開版に生涯をかけた人であったが、ひとたび飢饉に遇うや、血のにじむ思いで集めた開版の資金をすべて窮民救済のために投じたといわれている。見事な<廻向>であった。

大乗仏教の特徴は利他行だといわれている。たしかにその通りであるが、利他行を説くのは大乗仏教に限らない。南方所伝の『本生経』の主題は利他行であって、そこに登場する主人公――それが仏陀の前身であるが――は、どれだけ多くのものを衆生に廻らしていることか。大乗仏教だけが利他行を主張するのではなく、仏教はすべて<廻向>を説くのである。そして、それが人間の温もりを養うのである。

『成唯識論』では、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の中、基本的には共通して、すべてに<智慧行><福徳行>があるが、分けて考える時には、前の五が<福徳行>で、最後の一つが<智慧行>だとする旨が述べられている。<福徳行>は範囲が広いわけである。

私たちは、法を聞き法を思惟して<智慧>を磨かねばならない。それを欠かしたら仏道ではなくなる。だがそこに留まってはならぬのである。温もりの修行が修せられなければならぬのである。

――引用終わり

資糧位というのは、既に仏門を潜り抜けて、仏道を歩み始めていると言って良いと思います。しかし、その資糧位に自分があるのかどうかは、福徳行を伴っているかどうかではないかと、この資糧位を勉強していて思いました。仏法を勉強する、唯識を学ぶことは誰にでも出来得ることであろうと思います。多くの方が苦悩から救われたくて仏法を学びます。仏教書を読みます、歎異抄も勉強致します。『空』も『無我』も頭では理解し、阿弥陀仏の本願も分かり説明も出来るようになるかも知れません。

しかし、それだけに留まっているとすれば、それは未だ仏門の前で立ち止まっているにしか過ぎないのではないかと思います。本当に『空』も『無我』も、『唯識観』も知識として完全に理解出来たならば、行を伴わさせずには済まなくなると思われます。そうなれば『資糧位』、即ち、仏道を歩み始めたことになって、もう後戻りは有り得なくなるのだと思います。早く、そうなりたいものだと思います。それには、更にもっともっと<唯識観>を深めねばならないのだと思います。

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