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唯識の世界


43.悟りに向かう道−(7)

 『資糧位』、『加行位(けぎょうい)』と進んで来まして、いよいよ『通達位』まで参りました。この後、『修習位(しゅじゅうい)』『究竟位(くきょうい)』と続きますが、太田久紀師のお言葉を借りれば、通達位は、資糧位、加行位との間に根本的な次元の違いがあると言うことです。と言うことは、浄土門で言う『廻心(えしん)』を体感したと言うところでありましょうし、また、禅門の『悟り開いた』ところなのでしょう。浄土門の廻心、禅門の悟りも、それで終わりではなく、其処から新たな仏道が始まると言いますから、そう考えて間違いではないと思います。

さて、この通達位に関しましても、岡野先生のご説明と、太田久紀師のご解説を合わせて

岡野守也師の解説:
ようやく目的地の入り口までたどり着いた段階は『通達位』と呼ばれています。文字通り通達・到達した段階という意味です。ここに到るためにまず最初の1カルパかかることになっています。『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』では次のようにいわれています。

若し時に所縁のうえに、智都て所得無くなんぬ。
爾の時唯識に住す、二取の相離れぬるが故に。
大まかに訳すと、もしあるとき、智が対象を全く把握しなくなるならば、そのときこそ、実際に唯識の世界に生きていることになる。それは、主客の分裂を離れているのである、ということになるでしょう。無分別智の初歩的な体験です。入口にすぎないが着いた、着いたのだけれども入口だという段階です。

これは、今までほとんど煩悩の種ばかりで、それが芽生えたり、実ったり、またアーラヤ識に溜まり、またしても芽生える・・・・そう言う悪循環だったのが、資糧位、加行位と努力を続けて、なんとか悟りの種をいろいろ集めて、アーラヤ識に溜め、植えて。ようやくほんの少しだけ芽をふいた、というところでしょうか。

もちろん『通達』というくらいで、ほんのかすかに体験した程度は、始まりのそのまた始まりで、本当に通達するにはまだまだかかるわけですが、とりあえず始まったことには違いない。こういう言い方をすると、なんだか大したことないみたいですが、ここまで来るのも大変なことで、来たときには、とにかく嬉しいものです。

八識でいうと、意識・六識がかなり爽やかになり、世界のありのままをすばらしいと感じる妙観察智が働き始めた、凝り固まっていたマナ識がほぐれて平等性智が少し見えた、アーラヤ識の働きが休止して大円鏡智の世界がちらり見えた、だから、自然に必要なこと・いいことが出来る成所作智も少しは働くようになっている、といったところです。

三性説で言うと、もともとばらばらなものが後ろからつながるというものの見方・感じ方は妄想だといちおう納得出来て、一つのものが仮に分かれてご縁の世界を生み出しているという見方・感じ方に切り替えようと決心して勉強しているのが、『資糧位』、頭で勉強しているだけでなく実際に修行していくのが『加行位』、そして一つ・空の世界を「ああなるほど、このことか」とちょいと体験・実感出来たのが『通達位』の入口です。

太田久紀師の解説:
『加行位』で既に、『存在の空』も『認識の空』も理解されていた。真実を引可決定していた。だが、そこでは最後の最後まで、空の真理は対象化された理解であった。理解している自分自身が、『空』そのものであることの理解が不十分であった。眼は外を向いていたのである。「現前に少物を立てる」という言い方がなされていたのは、その最後に残った対象化を指摘したものであった。

『通達位』は、その対象化が一挙に崩壊するのである。出世間の自己へ跳び出して世間の自己が崩れるのである。『空』の真理そのものに自己が成るのである。唯識三十頌の「所縁に於て、智すべて無くなんぬ」というのは、そのことを言う。「現前に少物を立てる<加行位>」の境域が破られて「所得の無い」智の世界が開けてくるのである。自分が自分を超える、自分が自分でなくなる。自分でなくなりながら、しかも自分である。

私たちは、自分を中心にして、物事を考えたり行ったりする。自分の都合で、ものを向こうにおいて対象化して眺める。それは「末邦識」が存在しているからだ。「末邦識」が我癡・我見・我慢・我愛の煩悩といつもいっしょに働くからだ。だから私たちの思考も行為も自分の枠を超えて動かない。潜在的にはいつも意地無地いじむじと自分の都合にこだわり続ける。実はそれは無用のものなのである。
私たちの本当の相(すがた)は、存在、認識の両面にあって空である。『無常』『無我』という仏陀の教えはそれを示すものであったし、『三界唯心』『万法唯識』は特に認識面にスポットをあてた『空の教説』であった。

『通達位』は、自分の空なる真相が証(わか)るのだ。蒙昧な自分が崩壊し、真なる自分が体証されるのである。対象化して真理や自分を知るのではない。対象化された自分は自分ではないわけだから、ここでは、自分が自分をそのまま知るのである。対象化して知るのではないので『自覚』というような語を使ってよいかもしれない。唯識では「唯識に住す」とか、「真如を証す」とか「親証」などの語で表わす。

「真如を証する」というと、自分が中心になり、自分の意識で真如を知るというように考えられるが、『真如』の側からすると「真如が現われる」という面もあるので、「真如を見る」「真如が現われる」という両面を合わせて、『見道(けんどう)』ともいう。

ところで『通達位』『見道』で親証する『真如』=真理は、自分を離れて超越的にどこか遠くにあるものではない。今まで自分で気づかなかっただけで、実はとっくの昔からそうであった空なる自分の真相である。ありのままの自分だ。

『真如』とは「そのまま」とか「ありのまま」という意味を持っているということを。これも以前に学んだのであったが、空なる自分の自覚は、ありのままの自分ということでもあるであろう。空なる自分に成ったということは、自分が真如そのものに成ったということである。しかし、真如は実は本当の自分であるので、道元禅師は「自己、自己に逢う」という言い方をされる。

さて、こういうのが『通達位』だとすると、修行とは、不要のものを捨てることではあるまいかと思われる。溜めることではなくて捨てることではあるまいか。
要らぬものを背負い込み抱え込んで、それにしがみつき、意地を張り、つっぱったり、逆にひがんだり、すねてみたりしているが、それを思い切って捨てることだ。
空也上人(902〜972年)は「仏教で一番肝要なことは何か」と聞かれて、
           捨ててこそ
と答えられたというが、捨てるべきものを捨て得た時に、はじめて私たちは私を取り戻し、私になるのかも知れない。

――引用終わり

岡野師、太田師のご説明で『通達位』と言う悟りの段階に関しましては充分に理解出来るもと存じます。この理解自体、仏法を対象化した上での事であることは勿論であります。仏法を対象化するという事は、私が仏法を外から眺めていると言うことでありまして、物事を大小と言う尺度で言う場合に当てはめますと、仏法を対象化して眺めている私は仏法より大きいということだと思います。『通達位』ともなれば、仏法はとてつもなく大きくなり、私と言う存在は仏法の中に取り込まれてしまったと云える心境ではないかと思います。

太田師が、道元禅師のお言葉「自己、自己に逢う」を紹介されていますが、道元禅師の別のお言葉に、「仏道を習うは自己を習うなり、自己を習うは自己を忘るるなり、自己を忘るれば万法に証せざれるなり」と言う名言がございますが、この場合の自己とは、対象化した自己であり、この対象化した自己を忘れた時に、真実の自己に逢うということでありましょう。

親鸞聖人のお教えでは、歎異抄の第三章、「自力をひるがえして、他力をたのみ奉つる」と言う『廻心(えしん)』の瞬間が、この『通達位』に手が届いた瞬間だと言っても良いのではないか、と、勝手な事を考えております。

太田師は、後述で、「捨てる」と言うことに付きまして、次のように述べられています。
嫌いなものや気に入らぬものなら捨てやすいだろうが、それでも一度身に付けたものには未練が残るものだ。まして自分への愛着などが簡単に捨てられるものではない。唯識流に云えば、私たちのあらゆる経験を「薫習(くんじゅう)」している阿頼耶識の転換は、思うほどやさしいことではないのである。
だから修行が必要なのだ。「捨てる」といっても、ぼんやりしていて自然に捨てられるものではない。「捨てる」にはそのための、それ相応の「捨てる」力が必要である。それを養うのが『資糧位』『加行位』の修行であろうし、それを決定的に完成させるのは、己れの力ではなく『真如』の力であろう。「捨てようとする力」と「捨てさせようとする力」とが、ぶつかりあい、相い契合した時、『見道』が現成するのである。

これは正に、親鸞聖人の他力そのものを表現されたものだと、私は思います。

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