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唯識の世界


45.悟りに向かう道−(9)

悟りに向かう道も、いよいよ最終の『究竟位(くきょうい)』に辿り着きました。 長い道のりではありましたが、実際の仏道は、もっともっと、とてつもなく長い道のりだといわれております。しかし、修行しているそれ自体が、既に悟りだと言う意味の『修証一如』と言う言葉もございますし、また、「本当の悟りは仏法そのものを捨てる事だ、否、仏法に囚われることもなくなることだ」とまで言われる場合もあります。

岡野師、太田師が揃って言われるとおり、『究竟位』は人間の言葉では表現出来ない世界だと言うことでありますから、このような事を語れば語るほど、悟りから遠ざかるようにも思いますが、親鸞聖人が晩年になられてから、『自然法爾(じねんほうに)』と言われたご心境は、或いは、この『究竟位』を表現されたのかも知れません。

岡野守也師の解説:
最後の最後は、いうまでもなく目的地そのものへの到着、究極の境地です。といっても、これは、もう言葉で表現出来ない世界です。

此は即ち無漏界なり、不思議なり善なり常なり。
安楽なり解脱身なり、大牟尼なるを法と名づく。
訳すと、これはもはや汚れが漏れ出ることのない世界であり、不思議で、善であり、永遠に変わらない。安楽で解放された身心で、究極の存在であるものを真理と呼ぶ、ということになります。

「究竟位」では、八識が完成に四智になって、一切の煩悩がなくなる。自分の心が悩みで汚れることもなければ、人を悩ませ汚し傷つけることも一切ない。重さも苦しみもない。安らかで軽やかで、譬えようもなく清々しい。空・宇宙と一体ですから、個人・凡夫と違って無常ではない。永遠の世界に入っている。というか、永遠そのものである。これは、凡夫の八識―意識では勿論想像もつかないような不思議な境地で、常識では「そんなことがありえるのか?」と疑いたくなるかも知れません。

しかし、私達がどこか遠くのすばらしい国に旅する場合、すばらしいという話を聞いて、それを信用して、行きたいという気持ちになって、行くわけで、本当にすばらしいかどうか先に確かめてくるわけにはいきません。ですから後の問題は、弥勒、無着、世親といった菩薩たちのお話の私のまた聞きを皆さんが信用されるかどうかだけです。

ともかく、三カルパ修行と続ければ、「人間はここまで行ける」というのが、唯識の主張です。それは、かなり筋道の立った説得力のあるものだと思いますが、それを単なる誇大妄想だと取るか、大変な希望の話だと取るかは、皆さん一人ひとりの問題であり、自由です。もちろん私は希望の話だと思っていますし、実行してみて、途中までは地図どおりだ、この先も信用していい、と思っているわけです。

太田久紀師の解説:
最後に『究竟位』がある。
<仏果位>である。仏道修行の到達点である。しかしそれについては『唯識三十頌』の最後の頌をあげるにとどめようと思う。私の力の及ぶところではないということもむろんあるが、「果分不可説」といわれる。仏果の世界は語ることができないということである。仏果の世界は語れば嘘になるということであろう。

『唯識三十頌』は次のように究竟位を説き、頌を締めくくる。

此れは即ち無漏なり
不思議なり
善なり
常なり
安楽なり
解脱身なり
大牟尼なるを
法と名く

――引用終わり

長い道のりの仏道を勉強して参りましたが、これは道のりを説明したのでありまして、具体的に仏道をどのように歩めば良いかを、唯識に聞きたいと思います。

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