No.1042  2010.09.30
尖閣問題から日本国民が学ぶべきこと-2

今日は、午前中に開かれた国会の衆議院予算委員会の尖閣問題集中審議を視聴してからコラムを完成しようと思っていましたので更新が遅くなりました。
まことに申し訳ございませんでした。

さて、今回の尖閣問題から学ぶべきことの一つは、国家も私たち個々人と同じで、どの国も自己中心だと云うことです。そして自己主張の張り合いが最も顕著に表れ、又これまで多くの戦争の原因となってきた領土・領海問題には主張すべきは主張して決着させることが政府の最も重要な役割と責任であることを国民が認識する必要があると云うことです。

昨日から中国の強硬一辺倒の姿勢に変化の兆しが見て取れますが、基本的には中華思想、つまり自己中心性(エゴイズム)が極めて強い国柄であり、色々な情勢分析から戦術的に外向きの言動をコントロールしているだけでありますから、日本は今回の尖閣問題を天から与えられた自己変革の絶好の契機として捉えるべきだと思います。中国と云う国が、他国民を拉致し、他国との約束を破って核開発を進めると云う無法国家北朝鮮を擁護し支援している国家であることを忘れてはなりませんし、それは自分の国が厄介な問題を抱えたくないが為であり、そしてすべては自分の国の利益をのみ優先して行動を起こしていることに思い至らなくてはなりません。

アメリカだって同じ自己中心の国家です。
アメリカも自分の同盟国が他国と領有権に関わるトラブルに遭遇していても、更には他国から攻撃を受けても様子を見守る程度で、積極的な支援・援護をしてくれません。それは韓国の領海で起きた北朝鮮の魚雷攻撃事件と今回の尖閣事件で明らかになったのではないかと思います。同盟関係を結んでいる値打ちは、戦争になってからではなく、戦争と云う最悪の事態にならない抑止力であってこそ初めて意義があり、今の日米同盟は抑止力として機能していないと言うべきではないかと思います。私たちは無意識のうちに日米同盟が日本を守ってくれるように過大評価しているのですが、アメリカも自国と自国民を犠牲にしてまで守ってはくれるはずがありません。アメリカの若い兵士が、日本国民に代わって、日本国民の為に血を流してくれるなんてことは有り得ないことに早く気付かねばなりません。

アメリカと中国だけではありません。
もう一つの大国ロシアも、敗戦直前の昭和20年8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告した上で北方領土4島を不法に占領した国です。

どの国の政府も自国の国民を守るために漁場や資源獲得に血眼(ちまなこ)になる故に領土領海問題に敏感であり強く自己主張するのです。それと、元々土地も海も誰のものでもありません、地球のもの或いは地球上で生きる全ての生き物のものであります。従って本来は皆平等に仲良く分け合えば争いは起こらないのでありますが、欲に限りが無い〝煩悩〟を持つ人間社会では、殺し合ってでも自分のものにしようとするのが現実です。 唯一大乗仏教が花開いた日本国としては、今回問題となっている尖閣諸島もその周辺の海も、世界のものだと云う基本認識は持った上で、世界の多くの国々が歴史上でも国際法上でも、「尖閣諸島は日本に属する相当な根拠がある」と認めて貰えるように自己主張し納得して貰う外交努力をあらためて開始すべきだと思います。

日本は、明治維新以来昭和20年の敗戦に至るまでは、今のアメリカ、中国、ロシアに負けず劣らず自己主張の激しい領土拡張主義の国でした。東南アジアの国々に迷惑も掛けて来たことは事実だと思いますが、その反動でしようか、時計の振り子のように戦後は自己主張を引っ込め過ぎになったと思います。

今日の衆議院予算委員会の尖閣問題の集中審議の中で、野党多くが日本政府に対してよりも中国の姿勢を批判していましたが、唯一自民党の議員達だけが矛先を中国漁船や中国政府に向けず、ただただ菅総理大臣と仙谷官房長官に向けて、今回の船長釈放措置に官邸介入があったはずだと主張するだけでした。司法に政治が介入することは決して小さな問題ではありませんが、それよりも国益を損ねる民主党政権の弱腰外交に苦言を呈すべきであり、自民党政権が中国に対して主張して来なかった反省(尖閣問題は棚上げしようと云う当時の鄧 小平主席と合意したこと)を込めて、助言或いは後押しをすべきだったと思います。

私たちの人間関係においても、ここは重要なところです。仏教は相手の言いなりになることや無抵抗主義を唱えているのではありません。仏教は真実を求める教えであります。自分に自己主張があるように、相手にも自己主張があります。それを十分に認識した上で、お互いに根拠を説明した上で自らの主張を堂々と述べ合い、その時々の事案に対して公平公正な立場の第三者の意見を取り入れて合意に至る道筋を取るのが仏教の立場だあろうと思います。


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No.1041  2010.09.27
尖閣問題から日本国民が学ぶべきこと

尖閣諸島の日本領海内で起きた中国漁船と日本の海上保安庁巡視船の衝突事件 に関連して生じた外交問題を日本国民は軽々に扱ってはならないと思います。また政府任せでもいけないと私は思っています。それは、領有権を含む日本の安全保障の根幹に関わる問題であり、私たちの生活を脅かすものだからです。

中国政府は日本と日本国民への制裁・報復処置を次々と打ち出して来ました。それに堪りかねて中国漁船船長を釈放してしまったことを私は大阪地検の主任弁護士の証拠隠滅事件等とは比べ物にならない位の国家の一大事、国民にとっての一大事だと思うのです。

一大事には、三つの意味合いがあります。一つは、中国は日本に何の脅威も、少しの遠慮もなく、何の躊躇も無く神経戦的な攻撃を仕掛けて来たことです。もう一つは、他国からの主権侵害・侵略行為に対して毅然とした対応策が取れない日本政府の頼り甲斐の無さが明らかになったことです。さらに三つ目は、 日本国民が無意識ながらも安心安全の唯一の防波堤として位置付けている日米安全保障条約の無効性が明らかになったことです。

今回の日本政府の対応に不安を感じた国民は多いと思います。中国の理不尽さと横暴さに腹立たしく無念な思いを抱いた人も多いようです。しかし、無関心の人も少なからず見受けられます。特に若い世代では無関心と云うよりも、自分の生活とは何も関係がない事として無視しているかのように思われます。

日本が温和な事なかれ主義と言う見方をする人達もいますが、決してそうではなく、国家のことも、否、自分の命の安全さえ忘れて、物欲の満足だけを追い求めるただの動物に成り下がってしまった国民と国家であることに気付かねばなりません。

現代日本は牙を抜かれた虎状態に有り、ある意味で敗戦後戦勝国アメリカが取った占領政策の成果なのですが、ここまでの状態は当のアメリカでさえ想定外だったかも知れません。 このままの日本ではアメリカと中国の属国として沈んで行くしかないように思います。最早政府に一任して済むことでもなく、政府を批判だけしておればよいと云う訳でもない、いわば坂本竜馬が日本の危機を感じて奔走した幕末・明治維新の時と同じ状況だと思います。 私は仏法で解き明かす応用問題として、日本のあるべき姿を数回のコラムで考察してみたいと思います。


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No.1040  2010.09.23
検事の逮捕―仮説と検証について

大阪地検特捜部の主任検事が証拠隠滅容疑で逮捕された。
逮捕されたのは、厚労省の村木局長が自称障害者団体「凛(りん)の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとして虚偽公文書作成、同行使容疑で逮捕されたが、その立件に当たって捜査を指揮する立場だった主任検事である。 検察側が描いた事件の筋書き(大物政治家が関与した事件だとする)に不都合なフロッピー(偽の障害者団体証明書を作成して記録保存した)の作成日時を故意に改ざんした疑いがあるのだと言う。

真実と正義の味方であるべき検事が、或いは検察がそのような証拠改ざんをしてまで無実の人間に罪を負わせようとしたことが事実ならば、私たち国民は最後の拠り所を失うことになると云うことで、検察への不信・不審が一気に高まっている。それはそうだと私も思うし、その検察の誤った事件の見立てに依って15か月間も普通の平穏な私生活と職場を失うと云う実害を蒙った村木局長の心情は察するに余りあるものである。 主任検事の動機や組織的な関わり等の真相を明らかにすることは非常に大切であるが、私たちはこの主任検事が行ったかも知れない過ちを声高に非難するだけではいけないと思うのである。何故かと言えば、日常生活で常に私たちも犯している過ちだと思うからである。

検察にしても警察にしても、事件の真犯人を探し出し真相を明らかにする為には、事件の筋書きを推理することから始めなければならないはずである。この推理をすることすら批判するマスコミのコメンテーターが居るがトンデモナイことである。推理することなくして、事件を解き明かす行動(調査と捜査)を起こせないからである。

今回の事件では、不正を働いた『凛の会』の会長がたまたま石井一議員の元秘書だったことから、事件を推理したのだと思われる。「偽の障害者団体証明書を作成した元係長が、理由も無く単独でそのような不正をするはずがない。証明書発行を依頼した凛の会の会長が石井一議員の元秘書だから、きっと石井一議員に厚労省の幹部への口利き口添えを依頼して、指示命令系統が悪用されて起きた事件だ。」と検察サイドが推理したこと自体を責める訳にはいかないと思う。

この〝推理をする〟を別の言葉で言うと、〝仮説を立てる〟と言うのであるが、私たちも日常的に行っていることである。世の中の常識や、自分が経験したこと、学んだこと、見聞きしたことを基にして仮説を立てるのである。科学・学問の世界での発明や発見、新しい理論は、「こうではないか?」と云う仮説を立てて、その仮説が正しいかどうかを実験や調査を繰り返して、その仮説が正しいと考えられる客観的な事実(証拠、現象、物)を公に提示することで認められるのである。 私の仕事であれば、技術開発なのであるが、仮説とその正しさの証明を繰り返す作業だと言ってもよいと思う。時として、否、殆どの場合は仮説が正しく無く、期待した結果にならないのであるが、その時、その事実・現実を素直に受け容れられずに、実験のやり方が不味かったとか、機械が誤作動したのではないかとか、作業者が指示通りにしなかったからではないかとか、仮説をなかなか取り下げないものである。

科学や学問の世界の話だけではなく、私たちが日常で経験する人間関係においても、出会った相手に対して仮説を立てている。「この人は善い人に違いない。この人はこう云う性格のひとではないか。私と同じ価値観を持っていそうだ」と云う仮説を立てて付き合いを始める。付き合い始めても、常に仮説を立ててその人を評価し続けるものである。そして、仮説に合わないことが生じたとしても、なかなか仮説を取り下げられないものである。しかし、いよいよ仮説が自分の思い込みでしかなかったと気付く事実が突き付けられた時、人間関係が破たんし、絶交とか離婚と云う結末を迎えるのであろう。 逆の場合もある。本当は極めて優秀な人材であるのに、仮説が正しくなくて、人材が埋もれてしまうことだってある。たとえばイチロー選手も新人の頃は個性的なバッティングスタイル故に認められず2軍に甘んじていた時があった。幸い、見立ての良い上司と出遇って現在があるのであるが、こういうことはサラリーマン社会でも、私生活でも見立て間違いは生じているのではないかと思う。

私たちはなかなか真っ白な心や頭で目の前の事実や現実を見れないのである。そういうところから、冒頭の事件も、他の冤罪も生じているのである。事実を事実として見る勇気と冷静さを必要以上に意識するべきではないか。主任検事逮捕はそういうことを考えさせられる案件だと思う。

合掌―おかげさま


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No.1039  2010.09.20
教行信証を披く-行巻【悲華(ひけ)経の文】―16

まえがき
今回『悲華経』と云うお経の中から引用されている文言の中に、四十八願の中で本願とか王願と言われている十八願の末尾に記されている『唯除の文』が出て来ます。つまり、「阿弥陀仏は、私の名号を称え、命終わってから後には私の浄土に生まれたいと願う者全てを救うと云うけれども、唯、五逆罪を犯したり、お坊さんの悪口を言ったりした者は救わない」と云うものであります。 普通は、そのまま読み取るのが自然であります。親鸞聖人が尊敬する七高僧は全て、そのまま受け取っているのですが、親鸞聖人は、逆に阿弥陀仏が救い取りたい本当の目当てはこの『唯除の文』で除かれている極悪人の私を含む凡夫であると読み取られました。

私は七高僧の方々の詳細を存じておりませんが、皆妻帯されず一生独身を通されたお坊様方ではないかと思います。親鸞聖人は違います。私たちと同じ肉食妻帯の煩悩生活を送られ、果てはご長男の善鸞さんを勘当までされる苦悩をも経験されました。従いまして、その親鸞聖人が唯除くとされる者に自分は入らないとはとても思えなかったからではないかと思います。自分が救われないのなら、私と同様の在俗生活を送る者も全て救われないだろう。お釈迦様が説かれた教えは修行した僧侶だけが救われるためのものではないはずだとお考えになり、 阿弥陀仏の本願、すなわちお釈迦様の本願はこの十八願の『唯除の文』に込められていると『大無量寿経』を読み取られたのだと、私は教えられて来ましたが、私もその通りではないかと考えております。

●行巻の原文
悲華経大施品之二巻言。(曇無識三蔵訳)願我成阿耨多羅三藐三菩提已、無量無辺阿僧祇余仏世界所有衆生、聞我名者、修諸善本欲生我界。願其捨命之後、必定得生。唯除五逆、誹謗聖人、廃壊正法。已上(二の八)

●和文化(読み方)
悲華経の大施品の二巻に言く。(曇無識三蔵訳、どんむしんさんぞう)願はくは我、阿耨多羅三藐三菩提を成り已らむに、無量無辺阿僧祇余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かむ者、諸の善本を修して我が界に生れんと欲(おもは)む。願はくは其れ命を捨てての後、必定して生を得しめむ。唯だ五逆と聖人を誹謗せむと正法を破壊せむとを除かむと。已上(二の八)

●語句の説明
悲華経ー北涼の曇無識の訳したもので十巻からなる。弥陀・釈迦の本生を明かし、浄土における成仏と穢土における成仏とを比較対照して述べたもの。○曇無識三蔵ー中印度の人で中国北涼時代の訳経家。三蔵は経・律・論の三つに通じた人のこと。○阿耨多羅三藐三菩提ー梵語Anvttara-Sanmayak-Sambodhiで無上正偏智と訳する。仏のさとり、仏のさとりの智慧のこと。○阿僧祇(あそうぎ)ー印度の数の単位で無数と訳する。○五逆罪ー五種の重罪。①父を殺す②母を殺す③聖者を殺す④仏の身体を傷つけて出血させる⑤教団の和合を破壊し分裂させる。

●現代意訳(高木師)
『悲華経』の大施品の二巻に説かれている。(曇無識三蔵訳)願わくは、わたしが無上菩提をさとったとき、数限りない国々のあらゆる衆生が、わたしの名号のいわれを聞いて、わたしの浄土に生まれたいと思うならば、いのちが終わってから必ず往生出来るようにしよう。ただし五逆と聖人をそしる者、正法を破る者は除こうと。以上

●現代意訳(本願寺出版の現代語版より)
『悲華経』に説かれている。 「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、数限りない国々のあらゆる人々が、わたしの名号を聞いて念仏し、わたしの浄土に往生したいと思うなら、彼らが命終わって後、必ず往生させよう。ただし、五逆罪を犯し、聖者を謗(そし)り、正しい法を破る者は除かれる」

●あとがき
これから今までの自由数倍もの高僧方の経・論・釈からの引用が続きます。親鸞聖人がそのようにエネルギーを使われて、この『教行信証』を後代に遺されようとしたのは、何故だったのでしようか。師匠の法然上人の『選択本願念仏集』のご著書だけでは、他力本願の教えの本意が後代に伝えきれないとお考えになられたのではないかと云う見解もあるようでございます。

多くの教えから他力本願の念仏を選択した法然上人の教えを依り確かなものにするために、教として『大無量寿経』を浄土門の教えの根本と位置づけられ、その行として称名念仏を位置付けられたのだと云うことですが、しかし、何よりも大切なのは他力により賜った『信』だと云うのが『教行信証』の結論だと云う見方もあるようでございます。

親鸞聖人は在俗生活を送られながら、お釈迦様は私たち在家の者が救われる教えを説かれ遺したいと云うことが一番のお考えだったと確信しておられたのではないかと思います。もし、親鸞聖人がこの世に生まれられなかったら、私たちは真の他力本願の教えに遇えなかっただろうと思われます。

合掌ーおかげさま


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No.1038  2010.09.16
二通りの生まれ甲斐

『生き甲斐』と云う言葉は広辞苑に載っており「生きているだけの値打ち。生きている幸福・利益」と説明されていますが、広辞苑には『生まれ甲斐』と云う言葉は見当たりません。グーグル検索してもヒットしませんので、これは私の勝手な造語かも知れませんが、私は「この世に生まれた値打ち。私が感じるこの世に人間として生まれた意味合い」と云うような意味で使用しています。
『生き甲斐』は、この世に生まれたことを当たり前の前提として、「積極的に或いは充実感を持って生きる為に選んだ仕事とか趣味とか目標」と云うところではないかと思っています。私はこの『生き甲斐』も大切だと思っていますが、この『生き甲斐』を揺るぎ無いものにするためにも、確固たる『生まれ甲斐』を持つことが何よりも大切ではないかと考えて参りました。そしてこの『生まれ甲斐』こそ仏法そのものだとも思っています。

さて、表題に『二通りの生まれ甲斐』としましたが、京セラ創業者である稲盛和夫氏のご著書を拝見して、『生まれ甲斐』には二通りあるのだなと思いました。稲盛氏は、「人間は死んで肉体は消えるけれども、魂(意識体とも言われている)は残り来世に生まれ往く。人間はこの世に生まれてその魂を磨き、より善い魂にするのが生きていく目的だ」と考えられているようです。人それぞれに固有の霊魂を持っていると云うことでしょう。稲盛氏の『生まれ甲斐』は「魂を磨くこと、より善き魂にして来世に生まれ往くこと」だと言えるのではないかと思います。稲盛氏はその通り実践されており、京セラを日本有数の企業グループに育てられ、現在は経営破たんした日本航空の再建に挑戦されています。また『京都賞』と云うノーベル賞の日本版を創設され、科学や技術、文化の発展に私財を投じられています。まさに魂を高められて居られる最中でいらっしゃいます。

さて私が考えるもう一方の『生まれ甲斐』は、私が学んで来た仏法の考え方であります。浄土真宗のお坊様の故渓間秀典師(プロ野球日本シリーズ三連覇の阪急ブレーブス球団代表を務められもした)が「仏法は固有の霊魂は認めない」と言われた言葉が非常に印象に残っておりますが、私もそう思っています。そして、「私のこの命は、太古の昔から無数の祖先達が命のバトンを渡し続けて来て今たまたま私が引き継いで存在している極めて貴重な稀な命であり、しかもこの命は、現在の地球の全ての動植物、空気、水、太陽の光等など・・・に依って支えられている掛け替えの無い奇跡的な命であることに目覚めよう」と云うのが仏法が教え説く『生まれ甲斐』なのだと思っています。
そして「そのような命だからこそ無駄に浪費しては勿体ない、一人一人異なって授かった性格や能力を最大限生かして、周りの人々と掛け替えの無い命同士の一瞬一瞬の出遇いが慶びそのものだ」と云うのが『生まれ甲斐』と『生き甲斐』でありたいと思っています。

稲盛氏の『生まれ甲斐』に共感を覚えられ、それで初めて精進出来る方も居られるでしょう。それを私は否定するものではありません。『生まれ甲斐』を考察して生き抜くことが何よりも大切ではないかと思っています。

合掌ーおかげさま


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No.1037  2010.09.13
ベトナム出張で感じたこと

先週、仕事でベトナムに出張致しました。9月7日(火曜日)に出国し11日(土曜日)に帰国致しました。 ベトナムの首都はハノイですが、私が滞在したのは昔サイゴンと呼ばれていた南ベトナムの首都だったホーチミン市です。ホーチミン市はベトナム最大の商業都市です。ベトナムは南北に細長い国で、首都ハノイとホーチミン市は約1800キロメートル位離れており、ハノイには四季があり、ホーチミン市は雨季と乾季がある常夏の地域です。

私が訪問した企業は、ホーチミン市から自動車で約1時間の工業団地内にあり(日本の有名企業の工場が沢山あります)、現地従業員約2000人が働いており、日本から単身赴任している3人(社長、工場長、技術者)で管理しているメーカーです。

一番印象に残ったのは、やはり道路状況です。オートバイが溢れかえっていることと、信号は直進に関する青信号と赤信号だけが表示されるだけで、左折や右折する時は対向車を避けて運転手の判断だけですり抜けていくのですが、オートバイが居るし、車が居るし、その上、歩行者にも気を配らないといけませんから、日本人では絶対に運転不可能だと思いました。

それから、道沿いにはオートバイの修理屋さん飲食店らしき店が軒を並べているのですが、店の人達は皆店先の椅子に腰掛けて新聞読んだり、何かを食べていたりしていました。気温は大体30℃前後ですがクーラーが有りませんから屋外の風に当っての暑さ対策と云うことでしたが、道路沿いの風景は、トタン屋根とトタン壁の建物を含めて貧しさを感じさせる光景でした・・・。日本の豊かさとそれに慣れっこになっている私たち日本人の現状を振り返らずには居られませんでした。

それから、ベトナムの現場従業員の人達の月収は1万円程度と云うことで、日本企業がどんどん海外に出て、日本の失業率がなかなか改善されないのも頷かざるを得ませんでした。
明日は民主党代表選挙。多くの問題を抱える日本の舵を取る船長選びですが、菅氏も小沢氏も含めて今の与野党の古い議員さん達は、今の日本に導いた全て戦犯ですから、その中には日本国民の将来を託せる人材は居ないと思います。ベトナムに行って、私たち国民は若い人材を育てる努力を始めねばならないとあらためて強く思いました。


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No.1036  2010.09.06
般若心経のこころ

般若心経に金子みすずさんの二つの詩を合作してみました。

          色即是空
             昼のお星は目に見えぬ
             見えぬけれどもあるんだよ
             見えぬものでもあるんだよ

          空即是色
             すずと、小鳥と、それからわたし、
             みんなちがって、みんないい

合作させて頂いた金子みすずさんの二つの詩は次の通りでございます。

        星とたんぽぽ

           青いお空のそこふかく、
           海の小石のそのように、
           夜がくるまでしずんでる、
           昼のお星はめにみえぬ、
              見えぬけれどもあるんだよ、
              見えぬものでもあるんだよ。

           ちってすがれたたんぽぽの、
           かわらのすきに、だァまって、
           春のくるまでかくれてる、
           つよいその根はめにみえぬ、
              見えぬけれどもあるんだよ、
              見えぬものでもあるんだよ。

        わたしと小鳥とすずと

           私が両手をひろげても、
           お空はちっともとべないが、
           とべる小鳥はわたしのように、
           地面をはやくは走れない。

           わたしがからだをゆすっても、
           きれいな音はでないけど、
           あの鳴るすずはわたしのように、
           たくさんなうたは知らないよ。

           すずと、小鳥と、それからわたし、
           みんなちがって、みんないい。

明日から今週一杯、ベトナムのホーチミン市(元南ベトナムの首都)に仕事で参りますので、木曜コラムはお休みさせて頂きます。

合掌ーおかげさま


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No.1035  2010.09.02
書家 金澤泰子さんのご紹介

私が書家である金澤泰子さんを存じ上げたのは、つい先日のNHK教育テレビの番組「こころの時代」を視聴してのことでした。金澤さんにはこれまた書家で素晴らしい書を揮毫されるダウン症の長女翔子さんが居られます。ダウン症は染色体異常を持って生まれついた方の病であり、知的障害を併せ持つ場合が多い不治の病であります。
誕生直後の翔子さんを抱いて絶望の涙がどうしても止まらなかった金澤泰子さんが、25年を経過した今は幸せの真っ只中だと仰っていました。ダウン症が治ると云う奇蹟は起こらなかったけれども、絶望が幸せに転換する奇蹟を身を以って体験されたのでした。

クリスチャンのご主人の大きな愛に包まれ励まされると云う恵みがあったことは否定出来ませんが、ご主人の絶対愛の姿に学ばれて、我が子のダウン症から目を背けず、真正面から受け止め認められて、翔子さん5歳の時からご自分の得意な『書道』を大変な苦労と工夫を重ねながら翔子さんに教えられることを通して、翔子さんの素質と才能に希望を見出され、且つ、翔子さんならではの『一如の世界』に気付かされ目覚められて、闇から光の世界に心身を転じられたのだと思います。

幸せは今の自分を肯定出来ることだと思います。今の自分を肯定出来なければ感謝の心も湧き上がりません。今の自分を肯定出来るためには、今の自分の境遇から逃げず、そのまま受け止めて、真正面から立ち向かうことからしか幸せはやって来ないと思います。「そのまま受け止めることが出来ないから困っている」と云う声が聞こえて参りますし、私の心の奥底からも聞こえて参りますが、金澤泰子さんの「ダウン症の子が偶然私に生まれたと思っているうちは駄目だった。神様の私への愛の鉄槌だと思ってから立ち向かう勇気が湧いて来たようだった」と云う主旨のお言葉が印象深く心に残っております。

合掌ーおかげさま

金澤泰子さんのご主人は、翔子さんが14歳の時に亡くなられたそうでございますが、「翔子はお父さんの姿が無いのは分かっているけれども現実と空想の境が無いのか、直ぐ傍に居ると思っているようだ」と泰子さんが語られていました。ご主人の死は、泰子さんにはとても辛いことでしたでしょうが、やはり、真正面から受け止められて、これをも乗り越えられているのだろうと感銘を受けた次第であります。


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No.1034  2010.08.30
教行信証を披く-行巻(平等覚経の文)―15-④

まえがき
仏法には聖道門と浄土門があります。聖道門は修行に依って現世で悟りを開こうとする仏道であり、浄土門は修行ではなく阿弥陀仏の誓願不思議を信じることに依って煩悩を抱える身でありながらも悟りに等しい境涯に到れる仏道であります。私は人それぞれ聖道門に相性が合う人と、浄土門に合う人が居ると思っています。比較的理性が強く煩悩に負ない意思の強い人は聖道門、比較的情の厚い人、煩悩の深く自虐的な人は浄土門が合うのではないかと思っていますが、私は、親鸞聖人の浄土門でしか救われないと思っております。

浄土門の宗派には、大きく浄土宗と浄土真宗があります。世間では、法然上人の浄土宗、親鸞聖人の浄土真宗と言われていますが、親鸞聖人が浄土真宗と云う宗派を打ち立てられた訳ではございません。親鸞聖人は生涯、法然上人を師として仰がれ、法然上人の門下生だと云う立場で有られました。

この『教行信証』も、法然上人の主著書『選択本願念仏集』に対抗して書き表わされたのではなく、法然上人が仏法の中から唯一念仏を選択された根拠、正統性を数多くの文献を引用して、ご自身も確認・確信を得ながら提示されたものだと私は考えております。
そして、何度も申しますように、当時の仏教界(特に、念仏を否定した興福寺を始めとする奈良仏教界)が異端視して排除しようとした他力本願の念仏の教えが、お釈迦様が在家の為に説き遺された教えであることを大乗仏教の漢訳経典を引用する事に依って主張されたものだと考えております。

●行巻の原文
無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時、令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中、嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類、聞我名字皆悉踊躍、来生我国。不爾者、我不作仏。我作仏時、他方仏国人民、前世為悪聞我名字、及正為道欲来生我国。寿終皆令不復更三悪道、則生我国在心所願。不爾者、我不作仏。阿闍世王太子、及五百長者子、聞無量清浄仏二十四願、皆大歓喜踊躍、心中倶願言。令我等復作仏時、皆如無量清浄仏。仏則知之、告諸比丘僧。是阿闍世王太子、及五百長者子、却後無央数劫、皆当作仏如無量清浄仏。仏言、是阿闍世王太子、五百長者子、作菩薩道以来無央数劫、皆各供四百億仏已、今復来供養我。是阿闍世王太子、及五百人等、皆前世迦葉仏時、為我作弟子、今皆復会是共相値也。即諸比丘僧聞仏言、皆心踊躍、莫不歓喜者。乃至
     如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳
     諸此刹獲所好 無量覚授其決 我前世有本願
     一切人聞説法 皆悉来生我国 吾頃願皆具足
     従衆国来生者 皆悉来到此間 一生得不退転
     速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土
     供養於無数仏 非有是功徳人 不得聞是経名
     唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 悪憍慢蔽懈怠
     難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教
     人之命希可得 仏在世甚難値 有信慧不可致
     若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶
     則我之善親原 以是故発道意 設令満世界火
     過此中得聞法 会当作世尊将 度一切生老死 已上(二の七)

●和文化(読み方)
無量清浄平等覚経の巻上に言く。我、作仏(さぶつ)せむ時、我が名をして八方上下無数の仏国に聞かしめむ。諸仏各々弟子衆の中にして、我が功徳国土の善を嘆ぜむ。諸天人民蠕動(ねんどう)の類(たぐい)、我が名字を聞きて、皆、悉く踊躍(ようやく)せむもの、我が国に来生(らいしょう)せしむ。爾(しかあ)らずば我、作仏せじと。我、作仏せし時、他方仏国の人民、前世に悪の為に我が名字を聞き、及び正しく道の為に我が国に来生せむと欲はむ。寿(いのち)終へて復(ま)た三悪道(さんまくどう)に更(か)へらざしめて、則(すなわ)ち我が国に生れむこと、心の所願に在らむ。爾らずば我れ作仏せじと。阿闍世王太子、及び五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、皆、大いに歓喜し踊躍して、心中に倶に願じて言く。我等復た作仏せむ時、皆、無量清浄仏の如くならしめむと。仏、則ち之を知ろしめして、諸の比丘僧に告げたまはく、是の阿闍世王太子、及び五百長者子、無央数劫を却りて後、皆、当に作仏して無量清浄仏如くなるべしと。仏の言く、是の五百長者子、菩薩の道を作(な)して以来(このかた)、無央数劫に皆、各々四百億仏を供養し已(おわ)って、今、復た来って我を供養せり。是の阿闍世王太子、及五百人等、皆、前世に迦葉仏の時、我が為に弟子と作れりき。今、皆、復た是れに会して共に相ひ値(あ)えるなり。則ち諸の比丘僧、仏の言を聞きて、皆、心踊躍して、歓喜せざる者莫(な)けむと。
     是の如き人、仏の名を聞きて、 快安穏にして大利を得ん。 われ等が類この徳を得む。
         諸の此の刹(くに)に好き所を獲む。 無量覚その決を授けむる 我、前世に本願有り、一切
     の人、法を説くを聞かば、 皆、悉く我が国に来生せむ。 吾が願ずる所、皆、具足せむ。
     衆の国より来生せむ者、 皆悉くこの間に来到して、 一生に不退転をえむ。 速やかに疾(と)
     く超へて便(すなわ)ち安楽国の世界に到るべし。 無量光明土に至って、 無数の仏を供養せむ。是
     の功徳有るにあらざる人は、 是の経の名を聞くことを得ず。 唯だ清浄に戒をたもてる者、
     乃(いま)し還りて斯の正法を聞く。 悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、 以て此の法を信ずること難し。
         宿世の時、 仏を見たてまつる者、楽んで世尊の教を聴聞せむ。 人の命希(まれ)に得べし。
     仏、世に在(いま)せども甚だ値ひ難し。 信慧有りて到るべからず。若し聞見せば精進して求めよ。
     是の法を聞きて忘れず、 便ち見て敬ひ得て大に慶ばゞ、 すなわち我が善き親原なり。 是れ
     を以ての故に道意を発せよ。説ひ世界に満てらむ火にも、 此の中を過ぎて法を聞くことを得
     ば、 会(かな)らず当に世尊と作(な)りて、 将に一切生・老・死を度せんとすべしと。已上(二の七)

●現代意訳(高木師)
無量清浄平等覚経の巻上に説かれている。わたしが仏になったときには、南無阿弥陀仏の名号を広く十方の数かぎりない仏国に聞こえわたらせたい。そして諸仏たちに、それぞれ弟子たちのなかで、わが浄土の功徳の善妙なことを讃嘆させてやりたい。これによって、天人をはじめとして、虫けらにいたるまで、名号のいわれを聞いて、歓喜踊躍するものは、わたしの浄土に生まれることだろう。もしそのとおりにできなかったなら、わたしは仏になるまい。
わたしが仏になったときは、他方の仏国の人たちが、たとい前世にあって悪意のためにわが名号を聞いたにしても、また道のためにわが国に生まれたいと思ったものでも、寿命が終わったときには、ふたたび三悪道におちるようなことがなく、願うとおりにわが国に生まれさせたいものである。もしそのように出来なかったなら、わたしは仏になるまいと。

阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、無量清浄仏すなわち阿弥陀仏の24願を聞いて、身も心も喜びに満ち、心の中でわたくしたちも無量清浄仏のような仏になりたいと願うのであった。そのとき釈尊はこれを察知されて、多くの比丘たちに仰せられた。この阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、今後長い年月をえて、みな無量寿仏のような仏になるであろうと。
釈尊は更に仰せられた。この阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、菩薩の修行を修めて、はかり知れない年月の間、みなそれぞれ400億の仏に対する供養を終わり、今またここに来て私を供養するのである。この阿闍世王の太子や500人の子息たちは、前の世に迦葉仏の出世の時に、私の弟子になっていたのである。その宿縁に依って今またここに遇うことが出来たと。その時、沢山の仏弟子たちは、この言葉を聞いて、みな心から踊躍歓喜しないものはなかったと。・・・中略・・・

     このような人は、仏のみ名を聞いて、 心やすらかにして大利益を得るだろう。 わたくした
     ちもこの功徳を得て、 それぞれの国によいところを得よう。 阿弥陀仏は記別(あかし)をさずけて説か
     れるには、わたしたちは前世にあって本願をたてた。 一切の人もわたしの法を聞けば、 みなこ
     とごとくわが国に生まれさせよう。 わたしの願うところはみな具足するだろう。 おおくの国か
     ら来生を願うものは、 ことごとくこの国にやってきて、 一たび生まれたら不退の位を得るだろう。
        それだから、速やかに飛び越えて安楽世界にいたるのである。 はかりない光明の国にいた
     って、 無数の仏を供養することだろう。 このような功徳のない人は、 この経の名を聞く
     ことができない。 ただ清浄に戒をたもつものだけが、 この正法を聞くことができる。 悪
     と憍慢と懈怠の人は、 この法を信ずることが難しい。過去世で仏を見たてまつった者
     は、 喜んで世尊の教えを聞くだろう。 人間に生まれることは稀なことで、 仏が世に出
     られても遇うことはむずかしい。 信心の智慧を得ることはさらに難しい。 もし仏法にあ
     えたら精進して求めるがよい。 この法を聞いて忘れず、 信を得て敬い慶ぶ者は、
        すなわち我が良い友なのである。 故に道心を起こすがよいだろう。 たとい全世界に火
     が満ちようとも、 その中を通り過ぎて法を聞くなら、 必ず世尊となって、 一切の人
     びとを救うことが出来るだろうと。以上

●現代意訳(本願寺出版の現代語版より)
『平等覚経』に説かれている。 「無量清浄仏は、<わたしが仏になったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞こえさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとして、さまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、私の浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われ、また、<わたしが仏になったときには、他方の国の人々が、前の世で悪を縁としてわたしの名号を聞いたものも、まさしく道を求めてわたしの国に生まれようと思ったものも、寿命が終わればみな再び地獄や餓鬼や畜生の世界にかえることなく、願いのままにわたしの国に生まれさせよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われた。
阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、この無量清浄仏の二十四願を聞いて、身にも心にも大いに喜び、ともに心の中で<わたしたちも無量清浄仏のような仏になりたい>と願った。
釈尊はこれをお知りになって、多くの比丘たちに、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、今後長い年月を経て、みな無量清浄仏のような仏になるであろう>と仰せになった。
更に、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、すでに菩薩の道を修めて以来、はかり知れない年月の間に、みなそれぞれの四百億の仏を供養しおわり、今またここに来てわたしを供養している。この阿闍世王の太子や五百人の子たちは、みな前の世に迦葉仏が世に出られた時に、わたしの弟子になっていた。その因縁で今またここに会うことが出来たのである。>と仰せになった。
集まっていたおおくの比丘たちはこのお言葉を聞いて、心から喜ばないものはなかった。・・・中略・・・

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、《わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生まれるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生まれてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち不退転の位を得るのである。》とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。数限りない光明の世界に至って、無数の仏を供養しよう。過去にこのような功徳を積んでいない人は、この経の名を聞くことができない。ただ、清らかに戒律をたもった人だけが、この本願の教えを聞くことができる。邪悪なもの、おごり高ぶるもの、誤った考えを持つもの、おこたりなまけるものは、この教えを信じることが難しい。過去の世で仏を見たてまつった人は、喜んで仏の教えを聞くであろう。人として生まれることは稀であり、仏が世に居られても、遇うことは難しい。信心の智慧を得ることはさらに困難である。もし仏法に出遇えたなら努め励んで道を求めよ。この法を聞いて忘れず、信を得て敬い大いに慶ぶ者は、すなわち私の善き親友である。だから悟りを求める心を起こすがよい。たとえ世界中に火が満ち満ちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことが出来るなら、必ず後に仏になって、すべての迷いを超えるであろう。>と仰せになった。

●あとがき
私は法然上人よりも親鸞聖人に親しみを感じております。親鸞聖人のお師匠の法然上人ですから尊敬はしていますが、何故か親しみは感じられておりません。それは多分、法然上人が〝目を上げて女人を見ることなく〟一生独身を通されたと云う清僧と言われ、そう云うイメージが強く、また智慧第一とも言われ、私自身が自分とは人格が違い過ぎると思ってしまっているからだと思います。未だ、『選択本願念仏集』を読んでおりませんので、何れ勉強しなければならないと思っております。

合掌ーおかげさま


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No.1033  2010.08.26
生きて、悔いなし

『生きて、悔いなし』は、小椋桂さん作詞作曲の橋幸夫さんの新曲のタイトルである。過去に石原裕次郎さんにも『我が人生に悔い無し』と云うヒット曲があるが、「生きて、悔いなし、生まれてきて良かった」と言えたなら、その人生は成功だと言ってよいと思う。是非そうありたいものである。

仏教的に言えば、「生きて、悔いない」と言えると云うことは、往生した、成仏したことになろうが、ただ、仏教としてはもう一つ条件があるだろう。「現時点で人生を振り返る時にそう思うだけでなく、何が起こるか分からないこれから先の人生も、また、息を引き取る瞬間にも間違いなくそう言えると確信している。」と云うことである。

小椋桂さんは、お金も名誉も手に入れられたろう。癌と闘いながらも、なお音楽創作活動に生き甲斐を持たれているようである。仏教的な意味でも、「生きて、悔いなし」と言われるだろうか・・・

65歳になって、残りの人生もそうは長くない今の私はどうかと言えば、「悔いなしとは言えないが、悔い有りとも言えない」、と、実に中途半端な答えになってしまうが、もう少し丁寧に表現するならば、「仏法に出遇えたので、この世に人間として生まれて来て悔いなしと言える可能性を持ち得たと確信出来たところだ」と云うことになる。
本当は、今の時点で「仏法に出遇えたので、この世に人間として生まれて来て悔いなし」と云うべきなのかも知れないが、言い切れない何かが残っているのだと思うが、その何かがは今分からないのである。

合掌ーおかげさま

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No.1032  2010.08.23
教行信証を披く-行巻(平等覚経の文)―15-③

まえがき
延々と漢訳経典の引用が続きますが、親鸞聖人は経典を何時どんな方法で入手されたのでしょうか・・・。印刷技術がそれ程発達していなかったと思われる鎌倉時代の日本に同じ経典が何冊も有ったはずはありませんし、当時のことですから漢訳経典が入手出来ると致しましたら、京都ぐらいでしか無理ではないかと云うことを考えますと、35歳で京都を離れられた親鸞聖人がこの『教行信証』の製作を開始されたのは、色々な説がありますが、京都に帰られたとされる60歳を過ぎてからではないかと思われます。

それにしましても、異常と言っても良いほど多くの経典から同じような内容を引用されているのは、本願の教えが仏説(お釈迦様の説)であることを広く知らしめる為ではないかと思われます。それ程に他力本願の念仏の教えが当時は新興宗教扱いを受けていたと云うことではないでしょうか・・・。

●行巻の原文
無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時、令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中、嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類、聞我名字皆悉踊躍、来生我国。不爾者、我不作仏。我作仏時、他方仏国人民、前世為悪聞我名字、及正為道欲来生我国。寿終皆令不復更三悪道、則生我国在心所願。不爾者、我不作仏。阿闍世王太子、及五百長者子、聞無量清浄仏二十四願、皆大歓喜踊躍、心中倶願言。令我等復作仏時、皆如無量清浄仏。仏則知之、告諸比丘僧。是阿闍世王太子、及五百長者子、却後無央数劫、皆当作仏如無量清浄仏。仏言、是阿闍世王太子、五百長者子、作菩薩道以来無央数劫、皆各供四百億仏已、今復来供養我。是阿闍世王太子、及五百人等、皆前世迦葉仏時、為我作弟子、今皆復会是共相値也。即諸比丘僧聞仏言、皆心踊躍、莫不歓喜者。乃至
     如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳
     諸此刹獲所好 無量覚授其決 我前世有本願
     一切人聞説法 皆悉来生我国 吾頃願皆具足
     従衆国来生者 皆悉来到此間 一生得不退転
     速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土
     供養於無数仏 非有是功徳人 不得聞是経名
     唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 悪憍慢蔽懈怠

     難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教
     人之命希可得 仏在世甚難値 有信慧不可致
     若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶
     則我之善親原 以是故発道意 設令満世界火
     過此中得聞法 会当作世尊将 度一切生老死 已上(二の七)

●和文化(読み方)
無量清浄平等覚経の巻上に言く。我、作仏(さぶつ)せむ時、我が名をして八方上下無数の仏国に聞かしめむ。諸仏各々弟子衆の中にして、我が功徳国土の善を嘆ぜむ。諸天人民蠕動(ねんどう)の類(たぐい)、我が名字を聞きて、皆、悉く踊躍(ようやく)せむもの、我が国に来生(らいしょう)せしむ。爾(しかあ)らずば我、作仏せじと。我、作仏せし時、他方仏国の人民、前世に悪の為に我が名字を聞き、及び正しく道の為に我が国に来生せむと欲はむ。寿(いのち)終へて復(ま)た三悪道(さんまくどう)に更(か)へらざしめて、則(すなわ)ち我が国に生れむこと、心の所願に在らむ。爾らずば我れ作仏せじと。阿闍世王太子、及び五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、皆、大いに歓喜し踊躍して、心中に倶に願じて言く。我等復た作仏せむ時、皆、無量清浄仏の如くならしめむと。仏、則ち之を知ろしめして、諸の比丘僧に告げたまはく、是の阿闍世王太子、及び五百長者子、無央数劫を却りて後、皆、当に作仏して無量清浄仏如くなるべしと。仏の言く、是の五百長者子、菩薩の道を作(な)して以来(このかた)、無央数劫に皆、各々四百億仏を供養し已(おわ)って、今、復た来って我を供養せり。是の阿闍世王太子、及五百人等、皆、前世に迦葉仏の時、我が為に弟子と作れりき。今、皆、復た是れに会して共に相ひ値(あ)えるなり。則ち諸の比丘僧、仏の言を聞きて、皆、心踊躍して、歓喜せざる者莫(な)けむと。
     是の如き人、仏の名を聞きて、 快安穏にして大利を得ん。 われ等が類この徳を得む。
         諸の此の刹(くに)に好き所を獲む。 無量覚その決を授けむる 我、前世に本願有り、一切
     の人、法を説くを聞かば、 皆、悉く我が国に来生せむ。 吾が願ずる所、皆、具足せむ。
     衆の国より来生せむ者、 皆悉くこの間に来到して、 一生に不退転をえむ。 速やかに疾(と)
     く超へて便(すなわ)ち安楽国の世界に到るべし。 無量光明土に至って、 無数の仏を供養せむ。是
     の功徳有るにあらざる人は、 是の経の名を聞くことを得ず。 唯だ清浄に戒をたもてる者、
     乃(いま)し還りて斯の正法を聞く。 悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、 以て此の法を信ずること難し。

         宿世の時、 仏を見たてまつる者、楽んで世尊の教を聴聞せむ。 人の命希(まれ)に得べし。
     仏、世に在(いま)せども甚だ値ひ難し。 信慧有りて到るべからず。若し聞見せば精進して求めよ。
     是の法を聞きて忘れず、 便ち見て敬ひ得て大に慶ばゞ、 すなわち我が善き親原なり。 是れ
     を以ての故に道意を発せよ。説ひ世界に満てらむ火にも、 此の中を過ぎて法を聞くことを得
     ば、 会(かな)らず当に世尊と作(な)りて、 将に一切生・老・死を度せんとすべしと。已上(二の七)

●現代意訳(高木師)
無量清浄平等覚経の巻上に説かれている。わたしが仏になったときには、南無阿弥陀仏の名号を広く十方の数かぎりない仏国に聞こえわたらせたい。そして諸仏たちに、それぞれ弟子たちのなかで、わが浄土の功徳の善妙なことを讃嘆させてやりたい。これによって、天人をはじめとして、虫けらにいたるまで、名号のいわれを聞いて、歓喜踊躍するものは、わたしの浄土に生まれることだろう。もしそのとおりにできなかったなら、わたしは仏になるまい。
わたしが仏になったときは、他方の仏国の人たちが、たとい前世にあって悪意のためにわが名号を聞いたにしても、また道のためにわが国に生まれたいと思ったものでも、寿命が終わったときには、ふたたび三悪道におちるようなことがなく、願うとおりにわが国に生まれさせたいものである。もしそのように出来なかったなら、わたしは仏になるまいと。

阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、無量清浄仏すなわち阿弥陀仏の24願を聞いて、身も心も喜びに満ち、心の中でわたくしたちも無量清浄仏のような仏になりたいと願うのであった。そのとき釈尊はこれを察知されて、多くの比丘たちに仰せられた。この阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、今後長い年月をえて、みな無量寿仏のような仏になるであろうと。
釈尊は更に仰せられた。この阿闍世王の太子と五百人の長者の子息たちは、菩薩の修行を修めて、はかり知れない年月の間、みなそれぞれ400億の仏に対する供養を終わり、今またここに来て私を供養するのである。この阿闍世王の太子や500人の子息たちは、前の世に迦葉仏の出世の時に、私の弟子になっていたのである。その宿縁に依って今またここに遇うことが出来たと。その時、沢山の仏弟子たちは、この言葉を聞いて、みな心から踊躍歓喜しないものはなかったと。・・・中略・・・

     このような人は、仏のみ名を聞いて、 心やすらかにして大利益を得るだろう。 わたくした
     ちもこの功徳を得て、 それぞれの国によいところを得よう。 阿弥陀仏は記別(あかし)をさずけて説か
     れるには、わたしたちは前世にあって本願をたてた。 一切の人もわたしの法を聞けば、 みなこ
     とごとくわが国に生まれさせよう。 わたしの願うところはみな具足するだろう。 おおくの国か
     ら来生を願うものは、 ことごとくこの国にやってきて、 一たび生まれたら不退の位を得るだろう。
        それだから、速やかに飛び越えて安楽世界にいたるのである。 はかりない光明の国にいた
     って、 無数の仏を供養することだろう。 このような功徳のない人は、 この経の名を聞く
     ことができない。 ただ清浄に戒をたもつものだけが、 この正法を聞くことができる。 悪
     と憍慢と懈怠の人は、 この法を信ずることが難しい。 過去世で仏を見たてまつったもの
     は、 喜んで世尊の教えを聞くだろう。 人間に生まれることは稀なことで、 仏が世にで
                 

●現代意訳(本願寺出版の現代語版より)
『平等覚経』に説かれている。 「無量清浄仏は、<わたしが仏になったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞こえさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとして、さまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、私の浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われ、また、<わたしが仏になったときには、他方の国の人々が、前の世で悪を縁としてわたしの名号を聞いたものも、まさしく道を求めてわたしの国に生まれようと思ったものも、寿命が終わればみな再び地獄や餓鬼や畜生の世界にかえることなく、願いのままにわたしの国に生まれさせよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われた。
阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、この無量清浄仏の二十四願を聞いて、身にも心にも大いに喜び、ともに心の中で<わたしたちも無量清浄仏のような仏になりたい>と願った。
釈尊はこれをお知りになって、多くの比丘たちに、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、今後長い年月を経て、みな無量清浄仏のような仏になるであろう>と仰せになった。
更に、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、すでに菩薩の道を修めて以来、はかり知れない年月の間に、みなそれぞれの四百億の仏を供養しおわり、今またここに来てわたしを供養している。この阿闍世王の太子や五百人の子たちは、みな前の世に迦葉仏が世に出られた時に、わたしの弟子になっていた。その因縁で今またここに会うことが出来たのである。>と仰せになった。
集まっていたおおくの比丘たちはこのお言葉を聞いて、心から喜ばないものはなかった。・・・中略・・・

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、《わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生まれるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生まれてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち不退転の位を得るのである。》とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。数限りない光明の世界に至って、無数の仏を供養しよう。過去にこのような功徳を積んでいない人は、この経の名を聞くことができない。ただ、清らかに戒律をたもった人だけが、この本願の教えを聞くことができる。邪悪なもの、おごり高ぶるもの、誤った考えを持つもの、おこたりなまけるものは、この教えを信じることが難しい。>

●あとがき
南無阿弥陀仏は、ナマステ(帰依する)、アミターバ(無量光)或いはアミターユス(無量寿)と云う梵語を漢音訳したものですから、 念仏がお釈迦様の生まれたインドで始まった事は間違いないと思われますが、お釈迦様が念仏を称えられた言う原始経典は無いようでありますから、念仏の教えはお釈迦様が亡くなられた後に派生したと云う説も否定は出来ません。しかし、私はたとえ他力本願の教え、念仏の教えがお釈迦様が直接説かれたものではなくても、それで他力本願の教えが仏法ではないと云うことにはならないと思います。否、私はむしろ他力本願の教えはお釈迦様の教えが時代と共に多くの祖師方の智慧に依って更に進化したものだと考えています。

現代の私たちも、他力本願の教えが仏説か非仏説かどうかを論ずるよりも、自らの我執と心の中で対峙しつつ智慧を磨き、自分の言葉でお釈迦様が世に出られた本懐を語れるようになりたいものであります。それが仏法に遠き遠き古からの宿縁を授かった私たちの責任と義務ではないかと思います。

法話コーナーで更新中の米沢先生の『心の詩』の無相庵感想文に記していますが、私は親鸞聖人が至られた『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』の自覚も『愚か者』の自覚にも到っておりません。自分の能力を信じ、自分の力で生きて来た、自分の意思と力で生きていると思い上がっております。少なくとも、この世で最も愚かな人間だと云う自覚がありません。他人と比べれば未だましだと云う意識が抜け切れておりません。その間は、生かされている忝(かたじけな)さも感謝する気持も、『おかげさま』と言葉で書けても喋れても、それは見せかけでありホンモノではないと思っております。

合掌ーおかげさま


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No.1031  2010.08.019
支点を変えて観よう!

前回コラムの締めくくりに、『「なぜ、この世に生まれてきたのか」を考えても答えは得られないと思いますが、「私は何をするためにこの世に人間として生まれて来たのか」に対する答えは、先師や先輩から教えていただけ、確かな答えが得られると思います。そうすれば、苦難に遭遇した時、「何のために、私がこのような苦難に出遇ったのか」の答えも直ぐに見付かるのではないでしょうか。』と申し述べました。

難問、難局に遭遇した時の打開策を捻り出すに当たってのアドバイスとして、「一度、視点を変えて見てはどうか?」と云う言葉を聞かれた方は多いと思います。逆転の発想と云うのも、視点を変えると云う考え方の典型だと思いますが、今日の表題「支点を変えて観よう!」と云う〝支点〟は漢字変換ミスではなく、私お得意の駄洒落をキャッチフレーズに取り入れてみたものであります。前回コラムの「なぜ」ではなく「何のために」と考え直すというのは、飽くまでも「〝視点〟を変えて見る」ことであります。

「視点を変える見る」と云うのは、この世間を賢く上手に渡る上では有効な考え方だとは思いますが、飽くまでも人間の頭の中での思考回路を変えて見るということであり、この世に生まれた意味を自覚する上では殆ど役に立たないと思います。つまり、仏門で目的とされる悟りを開くとか、安心(あんじん)を獲(え)ることには殆ど役に立たない考え方ではないかと思います。

悟りを開くとか、安心を獲ると云うことは、絶対の自己否定の瞬間が我が心身に訪れなければならないと思います。それは、我が心身を支えている『支点』の認識にコペルニクス的転換が起こることだと思うのですが、それを成し遂げられたであろう方(東井義雄師)を紹介した米沢秀雄先生の『心の詩ーありのまま』を昨日法話コーナーに掲載致しましたので、ご覧いただければ、絶対の自己否定に関しても、支点のコペルニクス的転換に付きましても、お分かりいただけるものと思います。

自分の今を支えているのは自分ではありません。私たちの住む星〝地球〟でもありません。宇宙のルールと言いますか、宇宙の法則と言いますか、宇宙の動きを演出している働きが私の支点であります。これを仏法では仏と申します。宇宙の真実・真理です。

私は自信を持って生きていますが、何に自信を持っているのでしょうか?勉強して色々な知識を得た積りでいますが、私の知識の量は、(地球の大きさ)/(宇宙の大きさ)=1/∞⇒0、つまり殆どゼロに等しいのであります。

例えば、自分の足の下の地球内部で何が起こっているかを知りません。いつ大地震に依って命を奪われるかも知らないままで平気で生きています。車を運転することは出来ていますが、どのような仕組みで動いているかを具体的に説明出来る人は稀でありましょう。次の瞬間の命をコントロール出来る人は居ません。つまりいつ死ぬかを知っている人は皆無です。つまり、何も知らないに等しい、極めて愚かな私であります。しかし、自我一杯の私は他人と比べて自己を過大評価し、常に自分を優先し、常に自分を他の人よりも高みに置こうとします。

「支点を変えて観る」と云うことは、自分とはどんな存在かを知ることです。ちっぽけで愚かな自分の真実に気付き、自分を支えているのは自分の意思や能力ではなく、宇宙の働き、つまり自力ではなく他力であることに目覚めることであります。それを手を変え品を変え、繰り返し繰り返し教えてくれているのが仏法でありますが、思い上がっている私はなかなかその教えを受け容れようとは致しません、あゝ・・・。
支点を変えるには、やはり仏法を聞き続けるしかないのだと思います。

合掌ーおかげさま


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