2001.10.22

歎異鈔の心―第9條の2項―

まえがき:
   今、テロ→ビンラディン→アフガニスタン→タリバン→イスラム原理主義→イスラム教と言う連鎖で、一般の人にも宗教と言うものに特別の関心が集まっていると思う。宗教って何だろう、聖戦(ジハード)のためには、自分が死ぬ事は恐ろしく無い、むしろ死ねば天国行けるので喜んで死ぬと言うパキスタンのペジャワル神学校の生徒達の反応に戸惑いを感じている人は多いと思う。仏教或いは神道の信者が多い日本では、宗教は、生きていく上での不安を取り除き、心の平安を求める人のためにあるだと考えるのが普通だと思うが、マスコミに登場するイスラム原理主義の人達の言動を見聞きする限りは、宗教を求める出発点から違うのではないかと思わざるを得ない。幼い時から、聖典であるコーランを暗誦(あんしょう)させられ、アッラーの神を唯一の神として崇拝して、アッラーのためには命をも捧げると言う生き方には、違和感を覚える。
   それに引き換え、親鸞の他力信仰は、批判精神を尊んでいるように思う。私は批判精神を否定しない宗教が健全であると思う。信仰すれば、心もすっきり、平安な人生が開けると説くのが教祖的宗教に多いのであるが、親鸞は、念佛を唱えても、煩悩は消えないと言っている。
   苦は煩悩から生じるから煩悩が消えない限りは、心の平安はないはずであるが、煩悩があるからこそ、他力の救いが明らかなのだと言うのである。この心の転換点こそが、信心が確定した時なのであろうが、これを頭で理解しようとすれば、少々無理があると思う。だから他力信仰は易行(いぎょう)と言われるが、どうしてどうして難しいものである。しかし批判精神を否定し、神を信じる信仰よりは、私にはとっつき易いのである。

本文:
   よくよく案じてみれば、天にもおどり地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに、佛かねてしろしめして煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

現代解釈:
   しかし、よく考えてみれば、天にも踊り、地にも踊る程に喜ばねばならない事を喜べないのですから逆に、ますます往生は決定的と思って良いのではないでしょうか。喜ばねばならない気持ちにならないのに喜べないのは、煩悩がある証拠ではないですか。仏様はそれをとっくにご存知だからこそ、『煩悩具足の凡夫』とおっしゃったのでしょう。従いまして、他力の本願は、そんな私達のためにあるのだと思えますから、ますます頼りして良いのだと思います。

あとがき:
   『煩悩具足の凡夫』とは、煩悩がすべて揃った愚かな人間と言う事である。これは誰の事でもない。自分の事である。108の煩悩と言われ、除夜の鐘は、108の煩悩を吹き消すために108回の鐘をならすのであるが、108の煩悩を三つに集約すれば、愚痴(ぐち)・瞋恚(しんに)・貪欲(とんよく)となると言われている。愚痴は、済んでしまって、今更何を言っても仕方がないのに、あれがこうだったらと繰り返して文句を言う事であるが、私の毎日もその繰り返しである。瞋恚は、冷静さを欠いた怒り・感情的な腹立ちである。私も車に乗った時、ルールを平然と破り、他への迷惑を一切考えない行為に能く出くわすが、やはりカッとする。クラクションを鳴らす事もある。しかし後の気分は決して良くない。貪欲は、貪る(むさぼる)心である。欲は誰にでもあるが、異常な欲である。腹八分目にすれば良いものを、好物故に自制心が効かずに食べ過ぎる、飲み過ぎると言う浅ましさを、私は何百回繰り返してきただろうか。食欲だけではない。名誉も、金銭も、睡眠も、性欲(??)も、5欲すべてに、貪欲である自分である。
   親鸞は、正直に、この煩悩は消せないとおっしゃっている。この煩悩があるからこそ、他力の本願があると言うわけである。『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』と言う難しい言葉があるが、『煩悩があるからこそ悟りが開ける』と言う事であるが、煩悩が尊いと言っている訳ではない。煩悩があるからこそ、煩悩の苦しみから逃れたいが故に、悟りの世界に憧れる心が生まれると言う位に解釈したい。煩悩が用意され、煩悩を種として、悟りの世界へ導く力を他力と言うのだろうか……?


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2001.10.18

イチロー物語

  イチローの活躍で今年もシアトルマリナーズはアメリカンリーグの優勝決定戦への進出を決めた。大リーグに初めて参加した年に打率首位打者と盗塁王の2冠王である。首位打者は、ジャパンリーグを含めると8年連続である。それだけでも桁外れの大した選手である。もう世界一級品のプロ野球選手と言っても誰も異論はないだろう。今朝からヤンキースとの戦いが始まったが、マリナーズが今年もヤンキースに破れて球団史上初のワールドシリーズ出場を果たせなくとも、イチローにとってこれまでで最も満足の行くシーズンだったに違いない。
  このイチローの今日までの歩みを振り返る時、私達が人生を強く生き抜く為に必要な要素として、二つのサジェッションを与えてくれる。
  一つは『出会いの妙味』、もう一つは、『自分の強みを活かす』と言うことである。どちらが欠けても、いわゆる人生での成功は無いだろう。ここで是非とも強調しておきたいのであるが、有名になり、金持ちになるだけが人生の成功ではない。どんな分野でも、自分を生かし切った人(自己実現した人)を人生の成功者と言いたいのである。
  ご存知の様に、イチローの出会いの仕上げ相手は、今年までの8年間オリックスを率いて来た仰木監督である。仰木監督は、イチローがオリックスに入団して3年目の年(1994年)に監督に就任したのであるが、その前年も2軍に甘んじていたイチローの素質を見抜いていたのであろう、シーズン当初から1番ライトのレギュラーに据え、早くもその年に首位打者になったと言う大躍進であった。
  イチローと仰木監督の出会い物語は、1989年近鉄が日本シリーズで巨人に3勝0敗から3勝4敗で逆転負けしたところから始まる。しかも、それは3勝目を上げた後の勝利投手インタビユーでの加藤投手の有名な失言『巨人は、パリーグの最下位ロッテよりも怖くない』が起点なのである。その失言は巨人ナインのプライドを著しく傷付け、巨人軍選手達の闘志を蘇らせたのである。加藤投手があの失言をしなければ、近鉄は日本シリーズを征し、仰木監督の3年後の辞任も無かったと推測出来るのである。仰木監督が近鉄を辞任した1992年にイチローはオリックスにドラフト4位で入団した。イチローは、鈴木一郎として、土井監督が率いるオリックスでの2年間を殆ど2軍暮らしで過ごした。その時の修行は辛かったに違いないが、マスコミをはじめとする周囲の雑音に煩わせられる事も無く、自己が信じるバッティングスタイルの追求に邁進出来たのであるから、今振り返れば貴重な2年間だったと思う。
  イチローをドラフトで4位(この時のドラフト1位は田口壮選手)で指名する事を提案したスカウトが誰であったかは知らないが、そのスカウトとの出会いも、仰木監督以上に重要な出会いである事は勿論である。加藤投手、土井監督(結果として、イチローが飛躍する為の逆境の時を与えた)、担当スカウト、そして仕上げが仰木監督と言う事になるが、イチローに言わせれば、私達の知らないもっと重要な人との出会いもあるだろう。昨年イチローに先んじてマリナーズに入団した佐々木主浩投手の存在が、イチローにマリナーズ入団を決意させ、且つ異国での精神的な支えになった事は間違いあるまい。また出会いではないが、日本のプロ野球選手が大リーグへ挑戦する道を大きく切り開いた野茂英雄投手の存在も忘れてはならないだろう。2001年の大リーガーイチローが生まれるには、多くの出会い、しかも点と点を結び合わせた細い細い出会いの糸を思わざるを得ないのである。
  私達にも、現在の私たらしめる出会いがある。しかし人生の成功者になるには、もう一つ次元の異なる出会いが必要である。自分の強みとの出会いである。イチローのドラフトは投手としてオリックスに指名された。勿論打撃センスも買われての指名だったのであろうが、もし投手を続けていたならば、既に球界から去っていたかも知れない。
  自分の強みとは、私は『好きな事と天与の素質』と言って良いと思う。好きだけでは世界の一流にはなれないだろう。素質はあると言われながら消えて行ったプロ野球選手は5万といる。好きな事と天から与えられた才能・素質と合わさり、そして良き出会いがあって初めて世界で一流水準に到達出来るのだと私は思う。才能・素質は今風に言うと祖先から受け継いだ遺伝子である。イチローの強みは、好きな野球を職業として選べた事である。そして天与の素質は、身体能力としては、抜群の動体視力、強靭な下半身、動物的反射神経。性格面での優位性は、高い目標指向性、完璧主義、抜群の集中力だと思う。
  イチローは、バッティングが好きだからこそ、高い目標に向かって人並み以上の努力を出来ただろう。辛い練習・トレーニング・プレッシャーも楽に乗り越えられたはずである。そして上達する事、挑戦する事自体が楽しく、それに至る過程の何れをも辛いとも思わなかったに違いない。そして、時速150`の投手の球筋を瞬間的に見極める視力(動体視力と言う)、そして、その球のスピードよりも速くバットを振り切れる全身の筋力(特に下半身と腕力)、どちらも勿論努力によって鍛えられる部分もあるが、天与の素質に負うところ大だと思う。
  イチローは、好きなバッティング練習を幼い頃から始め、天与の素質にも恵まれ、多くの人との貴重な出会いを重ねて、大リーグの打撃の最高峰に到達した。昔から成功者になるには、運(うん)・鈍(どん)・根(こん)の3要素が必要とも言われて来た。出会いは運と言える。鈍は愚鈍(ぐどん)なまでわき目も振らずに一直線と言う時の鈍(どん)である。根(こん)は、根気の根であるから、粘り強さと言って良い。鈍も根も好きが根底にあると言える。だから、運・鈍・根は、出会いと好きな事と言い換えられるが、世界の一流になるには、私はこれに天与の素質を付け加えたのである。
  その上で私は、人生の成功者になる出発点が、その人にとって最も好きな事を職業として選択する事にあると認識する必要があると思う。イチローも小学校低学年から父親に連れられてバッティングセンターに毎日通って指導されたと言う。嫌いならば毎日は続けられなかっただろうし、父親も諦めたはずである。イチローはバッティングが好きで堪らなかったはずである。昔から日本では『好きこそものの上手なれ』と言うが、私達の幼い頃から受けている教育(家庭でも学校でも)は、反対の立場ではないか。好きな事ばかりやっていると、嫌いな事も勧んでやりなさいと小言を言われ、得意な学科を伸ばすよりも苦手な学科の克服を強要されたものである。運動会も今では順位を強調しない方式に変わっている。走りが得意な生徒が賞賛される場は学校教育の場からは失われた。
  私も得意な事は何か、好きな事は何かと言う視点で教育された記憶はない。それは、勿論企業に入ってからも変わらなかった。適材適所とは詠い文句としては存在したが、現実は使い捨て人事だと思う。与えられた職場・仕事で目立った成果が上げられなければ、敗北者として窓際へ追いやられるだけだ。人材を生かすと言うよりも、人には必ずあるはずの長所を発掘する事も無く、葬り去っていると言うのが、今でも企業の現実だと思う。
  私のように齢50歳後半になってしまうと手後れであるが、それでも事情が許されれば、残りの人生は、好きな事、興味が持てる分野で仕事をしたいと思っている。家族、従業員も含めて、周囲の人達に関しても、得意な事は何か、短所よりも長所は何かに注目して行きたいと思う。
  日本のノーベル賞授賞者は、アメリカの数十分の一、イギリスの十分の一らしいが、幼い頃からの育て方に起因するのではないかと思う。皆が皆、イチロー選手にはなれないだろうが、誰にもイチローと同じような達成感は味わえる得意分野があるはずである。最近、イチロー以外でも世界の一流水準に到達した人々(女子マラソンの高橋尚子選手、ノーベル化学賞の野依良治教授、青色ダイオードの中村修二教授)の話を聞くに付け、出会いと自分の強みと言う視点の大切さを思わずにおれない。


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2001.10.15

歎異鈔の心―第9條の1項―

まえがき:
 宗教と科学は人類に与えられた二つの智慧だと思います。科学は人類・地球を含めた存在と現象の解明欲と便利さを求める結果であり、一方宗教は、人間として生きていく上で遭遇する苦難・悩みを乗り越える為に精神面をサポートする杖とも言うべきものだと思います。
 面白いと言っては不謹慎ですが、科学は物欲の追求と言う側面があり、限りなく進歩(進歩と言えるかどうかは別として)を遂げて来ましたし、しかし宗教はどうでしょうか?ユダヤ教が紀元前10世紀、仏教が紀元前5世紀、キリスト教が紀元1世紀、イスラム教が紀元7世紀と今から1300年前には、世界の宗教は、ほぼ出揃い、それからは世界の人々に影響する新しい宗教は生まれていないとされています。お釈迦様を超える人、キリストを超える人、マホメットを超える人は以後輩出しておりません。何故なのでしょうか?
 私には、科学の進歩と何らかの関係がある様に思えてなりません。科学が進歩して、人間に苦難や悩みが無くなったと言う事ではなく、科学が進歩して、むしろ苦難も悩みも大きく複雑になっているはずなのに、人間は苦難・悩みもすべて科学によって解決出来るかのような錯覚・考え違いをし始め、宗教に救いを求める謙虚な姿勢が弱まって来た所為ではないでしょうか。
 今解説中の歎異鈔は紀元12世紀後半の著書です。親鸞の境地が世界の宗教史上どう言う位置を占めるかの宗教哲学的評価は宗教学者達に任せするとして、私は法然・親鸞の『他力本願』と言う考え方は、お釈迦様を超える事はないにしても、キリスト、マホメットにもひけを取らない、革新的な境地だと思います。
 親鸞にカリスマ的、教祖的なところはありません。今回の9條は、そう言う親鸞の面目躍如たるものが現れており、昔から最も好きな箇所であります。

本文:
念佛まふしさふらへども勇躍歓喜のこヽろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこヽろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯園房おなじこヽろにてありけり。

現代解釈:
 念佛を唱えますが、一向にウキウキするような喜ばしい心にはなりません。また急いで浄土に旅立ちたいと言う気持ちにもなりませんが、これは一体どう言う事でございましょうかと親鸞聖人にお尋ねしてみましたところ、聖人は、『親鸞も同じような疑問の気持ちがありましたが、唯園房も私と同じ気持ちを持っていたのですね』と申されました。

あとがき
 普通の師匠なら、こんな質問をされた時は、『君もまだまだ修行が足りないね、もっと励み給えよ』位の事は言ってしまうのではないでしょうか。
 勿論、親鸞も本当に唯園と同じ不審を抱く事もあったのでしょうが、この質問を受けた頃には、親鸞なりに心の解決を得ていたと思います。しかし、親鸞聖人は質問した唯園と同じ立場に立って、同じ目線で、私はこう考えるのだが…と静かに諭すところは、さすがだと思います。


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2001.10.11

日本の自立に向けて

 アフガニスタンへの空爆が開始された。民間人の死も伝えられているが、悪人テロリストの温床を破壊し、テロを根絶するための正義の行為だと、ブッシュ米国大統領、ブレァー英国首相は強調した。アメリカ国民の90%以上の人がこの空爆を支持し、65%の人がアフガニスタンの民間人に犠牲者が出ても仕方が無いと言うアンケート調査結果も報じられた。
 目には目を、歯には歯をのアメリカ人気質が如実に現れている。冷戦後の今や、アメリカは世界のリーダーであるが、私は、このリーダーを正しく補佐する右腕・左腕となる国が出現しない限り、世界平和は実現しないと思うようになってきた。日本こそが、右腕となり得る素質と経緯を持っていると思っている。
 私は、アメリカには日本が持ち得ないリーダーシップがある事を素直に認めるが、そのリーダー振りは、自分こそが正義、自分だけが正義だと言う、西部劇の保安官的イメージである。弱者をいたわり、弱者の立場に立って物事を解決して行くと言う姿勢ではないように思う。理由を問わず、犯罪者は即抹殺するのだと言う厳罰主義者のような気がする。日本は、20世紀に3度にわたり、アメリカの制裁・強要を受けた。真珠湾奇襲に対する原爆投下、そして為替の変動相場制への移行(所謂プラザ合意)による円高政策、そして約10年前の貿易摩擦時の日本からの輸出高数値目標管理である。
 日本はこう言う強いアメリカの忠実な仲間と言う形での協力よりも、アメリカの足らざる部分を補完する形のサポートこそ日本にしか出来ない世界への貢献だと思う。
 それは決して、政府に今回の後方支援の在り方に付いて転換を求めると言う事ではなく、私達国民がもっと世界情勢、世界が抱える問題に目を向けなければ始まらないと言う事である。私達国民の意識レベルが変わらない限り、政府の施策は変わらないのである。私達国民が世界の問題を知れば、国としても世界の問題点を考察し、解決策を考え、外交的に提案し支援して行かざるを得なくなるはずである。そうする事がアメリカをサポートする事でもあり、世界に目に見える貢献をする事になると確信する。
 湾岸戦争そして10数年後に発生した今回のテロは、世界のリーダーとしてのアメリカが、中東問題、パレスチナ問題への対処の仕方を間違えて来た事を突きつけられていると考えるべきである。にもかかわらず再び間違いを犯しているのが、今回のアフガニスタン空爆だと思う。
 テロも戦争も、所詮は人命を軽んじるが故の行為である。世界平和を望む立場とは正反対の行為である。テロも戦争行為も、どちらも自分を正当化している事においては同じ事である。ビンラディンの声明を読むと、アメリカが悪で自分達がアッラーの神から祝福される正義という。一方アメリカの主張も、テロこそが世界の文明と自由主義に対する挑戦であり、極めて卑劣な悪であると言うものだ。テロが何故発生したかには一切言及していない。私は、テロも戦争も全く同等に悪だと思う。アメリカもビンラディンも悪である。この場合の悪は、親鸞聖人の言う悪とは異なり、救くわれる事が無い悪である。悪であると言う認識が無い悪だからだ。
 根本原因を取り除かない限り今回のテロも地域紛争・戦争も無くならない。テロの根本原因は、特定地域の貧困、飢餓である。テロの温床にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と言う宗教間の確執と、イスラム教の分派間の争いとも不可分ではあるが、単純な宗教戦争の側面だけではなく、慢性的な貧困・飢餓が根っ子にある政治経済問題なのである。世界では、日本の様に物が溢れかえっている国もある一方、中近東では毎日数千人が餓死していると言うアンバランスが厳然として存在している。そう言う状況を考察せずして自国の論理を優先して、中近東に混乱とテロをもたらしたアメリカの責任は重たいものがあると思う。
 55年前、日本はアメリカの原子爆弾投下により、20数万人のそれこそ何の罪も無い民間人を失った。真珠湾奇襲と言う作戦の代償と言えば代償であるが、その尊い犠牲を無駄にする事なく、世界平和に尽くす義務があると思う。アメリカを後方支援している場合ではないと思う。日本が本当の世界平和に貢献するには、前述したように、世界の問題を知る事から始まる。私達国民は、ウサマ・ビンラディンと言う名前さえ今回初めて知ったと言う人が大半ではないか?アフガニスタンについて何を知っていただろうか?私自身は、アフガニスタンの国土の殆どが山岳地帯と言う事も、どんな国(イラン、パキスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)に囲まれているのかすら正確には知らなかった。イラン・イラク戦争の原因、内容、経緯、結果も詳細には知らなかった。イスラム教徒の分布が世界全体に及んでいる事も知らなかった。政治家は知っていたかもしれないが、イスラム教の歴史を含めて、イスラム教がどんな宗教で、どんな分派状態かまでは勉強していないだろう。世界の問題に無知では、正しい判断が出来るはずもなく、世界への貢献が出来るはずがない。世界の勉強をして、自分の自主判断で国策を決め、アメリカ追随外交から脱却しなければならない。
 しかし、アメリカへ基地を提供し、アメリカの軍事力に頼って(所謂、核の傘の下で)我が国民の安全を保障すると言う道を選んでいる限りは、小泉首相でなくても、アメリカ追随外交にならざるを得ないのも当然の事である。アメリカに守るだけ守って貰い、そのアメリカが攻撃された時には、何もしないと言う事は、普通に考えれば出来る訳が無い。
 私は、そろそろ日本も自立すべき時を迎えたのではないかと思う(勿論、国民の総意で決定しなければならないが)。この際、国民投票で、これまで通り国の安全保障はアメリカ依存で行くのか、或いはアメリカ軍事基地を返還して貰い、自力防衛のために自衛隊を強化すべきかを国民に選択させる必要があると思う。理想論では、永久中立国として軍隊も自衛隊も持たないと言う姿が望ましいが、日本を取り巻くアジア諸国の脅威からして、それは非現実的であろう。現行の、武力行使を禁止した憲法は堅持し、或いはもっと歯止めをしっかりした上で、経済力に見合った世界最強の自衛隊を保有すべきだと思う。日本の科学力、技術力からすれば、世界一の軍事力(人数ではなく、ITを駆使した技術情報力を含む)を保有するのはそう難しい事ではないからである。
 また、日本は古くから神道・仏教の国である。パレスチナ問題の焦点でもある聖地エルサレムを我が聖地と主張するユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒を多く抱える国々とは幸いにも立場を異にしている。その立場こそアメリカを補完して世界平和に貢献し得る大切なものなのである。
 その立場を踏まえて、アメリカに次ぐ経済力、技術力を行使して、世界に点在する貧困・飢餓の是正に努力し、各国の自立を支援する国として、アメリカと共に世界をリードして行く道を選ぶべきだと思う。
 それが21世紀の日本が辿るべき道だと思うのだが………。


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2001.10.08

歎異鈔の心―第8條―

まえがき:
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教を世界の5大宗教と言う。キリスト教、イスラム教はユダヤ教から、仏教はヒンズー教から派生したと考えられているようである。私は今回のアメリカ同時多発テロ発生の根本原因として『信仰の排他性』を考察しているので、テロ首謀者と見られているビンラディンのイスラム教原理主義が派生したイスラム教の生い立ち、教義、分派状況を勉強中である。いずれ勉強結果をコラムにまとめる積もりであるが、勉強しているうちに、思わぬ余得として、親鸞聖人の『他力本願』、『如来から賜った信心』と言う意味がより明らかになった。
 私は、学校教育でも家庭教育においても前述の世界に5大宗教があることすら教えられなかったので、まさに自分の意志で、世界の5大宗教の中から仏教を選択した訳ではない。自分の意志で、仏教の中の数多くの宗派から浄土真宗を選んでいる訳でも無い。だから、比較研究した結果ではなく、たまたま仏教国の日本に生まれ、浄土真宗の信仰家庭に育った故、自然と親鸞聖人の考え方に共感を懐く様になったのだと思った。イスラム教の盛んな国に生まれていれば、イスラム教徒になっていただろう。ヒンズー教の盛んなインドに生まれていたら、ヒンズー教徒として、牛肉を食べない生活を極自然と営んでいただろう。この歎異鈔に出会ったこと自体、本文中にある『わがはからいにあらず(自分の力や意思で出来た事ではない)』なのである。そう受け取ると、この條も理解し易いのではないだろうか。

本文:
念佛は行者のために非行非善なり。わがはからひにてて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行非善なり、と。

現代解釈:(非と言う文字は、自分がする……に非(あら)ず、と読めば良いと思います)

念佛は、念佛を唱える者にとっては非行非善である。自分のはからいで修行するものでないから非行といい、自分の計らいで作る善根でも無いから非善と言うのである。この念佛を唱えると言うのは佛力の現れであって、凡夫の自力を離れたものであるから、念佛を唱える我々にとっては、非行非善だと、親鸞聖人はおっしゃったのです。

あとがき:
現代に生きる我々が歎異鈔を読む時、何故こうも他力、他力と力説するのか不思議でもある。あまり自力を否定されると困惑する人もいるだろう。現実生活を営む我々に、すべては自分の力ではないんだと言われると、他力本願は運命論なのかと勘違いする人もいるに違いない。 それは、この歎異鈔が書かれた時代を考え、親鸞の教えを取り巻く環境に思うと理解出来るのだと思う。念佛を唱えさえすれば良い事が起るとか、善徳を積まなければ往生出来ないとか、はたまた、日蓮による念佛を否定される世間の動きもあり、親鸞没後の浄土真宗に危機感を持った親鸞の側近であった唯円が歎異鈔を書き残した事を忘れてはならない。
私は、この自力・他力論争においても、仏教の根本な考え方『中道を歩む』を忘れてはならないと思う。しかし、そう言う冷静さを持っても、やはり非行非善を受け容れたいと思う。


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2001.10.04

続―エリートの自殺

 昨年11月に『エリートの自殺』と言うコラムを書きました。プロ野球ヤクルト球団の元エースの自殺についてでした。極最近にも、東京オリンピックの柔道の金メダリスト、猪熊氏の自殺が報道されました。建設会社の社長をされていて、倒産を苦にされての自殺と言う事でした。同じ社長として苦境にある私には、とても他人事とは思えませんでした。
 私も今は倒産と隣り合わせの毎日です。情けないのですが、正直なところ『倒産を回避するには?』が最重要テーマの毎日がこの数ヶ月続いています。倒産が現実となった時、自殺など考えないと断言出来るかと言うと少々心もとないものがあります。それは、人間と言うものは、名誉心と言う事、面目を保ちたいと言う欲求(本能とも言いましょう)が、生きたいと言う欲求よりも強い事も有り得るのが現実だからです。この心の動き・感情は、動物には絶対ありません。人間だけにある本能だと思います。良く言えば、より良く生きたい、向上したいと言う自己実現欲を持っていると言う事になります。
 猪熊氏の心情を正しく推察する事は誰にも出来ませんが、倒産は多くの人々に金銭的迷惑を掛けます、本人も世間の表舞台から降りなければなりませんから、名誉あるオリンピックの金メダリストとしては、そんな自分を許せないし、面目ない気持ちで一杯ではなかったかと、私は想像しています。『生き恥を曝すよりは死ぬ方がまし』と、倒産に至るまでの気苦労で心身共に疲れ果て、正常な判断が出来ない精神状態の中で、瞬間的に死を選んでしまったのかも知れません。エリートは名誉心、向上心が人一倍にあったからこそエリートの地位を得たのだと思います。人一倍にこなした練習の辛さも、名誉心・向上心が吹き飛ばしていたはずです。多分、イチロー選手も、高橋尚子選手も、名誉心・向上心が人一倍、いや世界一強いのだと思います。猪熊氏も世界一強い名誉心と向上心があっての金メダリストです。だから世界一と言うエリートに上り詰めた人は、一旦名誉心を著しく損なう局面に遭遇した時には、歯がゆさ、面目なさも世界一のものとなり、死を選ばざるを得ないのかも知れません。
 自殺者は勿論エリートだけには限りません。普通の人も病気を苦にしたり、失恋を苦にしたり、借金地獄に落ちたり、犯罪を犯しても自殺致します。何れの人も面目無さ、突詰めれば自己愛から死を選択しているのだと思います。それがエリートには特徴的に感じられるだけだと思います。
 私は前述の人々のようなエリートではありません。しかし小さい会社とは言え社長と言う地位を考えると、ある種のエリートかもしれません。誇り高い男だなぁーと我が身を反省する事も時々あります。それ故に、猪熊氏の自殺を他人事とは考えられませんが、しかし……。
 私は倒産なんて恐くないとは思っていません。最悪の事態を独りで想定・吟味する時、胸騒ぎがする事もあります。しかし私は倒産、そして自己破産しても、自殺しないと思います。案外自殺する勇気さえ持ち合わせていないと言うべきかも知れませんが、仏教徒としての人生を全うしたいと思っているからだと思います。『生まれ難き人間と言う生命を受けた身を、たかだか金銭的な破綻で自らを抹殺するなんて、仏様(大宇宙の御働き)に申し訳無い』と言う、仏教徒としての誇り高さ、面目なのかも知れません。偉そうな事を言っても、やはり結局は面目を保ちたいだけなのかな?と思いますが………??
 さぁ明日は淡い期待を求めての東京出張です。弊社の開発技術分野では著名な、大学同窓の先輩(お会いはした事が無い)のご紹介で新しい出会いがあります。有り難い事です。


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2001.10.01

時代の流れ

 9月30日東京ドーム、長嶋茂雄氏の監督引退セレモニーがあった。昭和49年の選手引退セレモニーと言い、人気・実力・人格を兼ね備えた長嶋茂雄に相応しい盛大な舞台であった。私の中学2年生の時にデビューして以来、数々の名場面の主役を果たし、球界を代表し、球界を引っ張って来た。これから先も含めて、プロ野球史上の第一人者であり続けるに違いないが、時代の流れを感じさせた日でもあった。それは高橋尚子選手が世界最高記録でベルリンマラソンを走った日でもあり、イチロー選手が大リーグ新人記録(安打数)を90年振りに塗り替えた日でもあったから、時代の流れを殊更、際立たせたのかも知れない。
 今日10月1日は多くの企業にとっては下期の仕事初めの日である。長引く不況の出口が見えない時に発生したアメリカ同時多発テロ事件が、世界の株安をもたらし、最悪の下期スタートとなった。この時期に将来に楽観的予測をする経済評論家・識者は一人もいない。悲観的な展望のオンパレードである。
 弊社の足元も極めて厳しいものがある。この年末で主力製品の注文がストップする予定であり、究極の事業再構築が必然である。それでも事業が続くかどうかの保証も無い。不安が無いと言えば嘘になる深刻な状況であるが、弊社も含めて企業と言う存在にとって、これはすべて時代の流れであり、乗り越えねばならない、そして乗り越えられなければ舞台から降りるべき1場面である。
 ありきたりではあるが、『朝の来ない夜はない』。世の中の評論家諸氏の展望が当たった試しは無い事を信じ、そして良い意味で、時代は流れる事を信じて『今日為すべき事を為す』と言う1日1日を積み重ねたいと思う。


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2001.09.27

宗教の危機

 アメリカ同時多発テロから半月が経過した。世界文明の最先端の街ニューヨークで、未だ6千人余りの人々が行方不明と言う想像を絶する事件であり、先ずは事件処理に最善を尽くさねばならない。一方、この事件の首謀者を特定し、事件の詳細な経緯と動機の解明も急がねばならない。必要な手続きとしては、一般の事件と全く変わらない。
 ただ、一般事件と大きく異なる点としては、どうも宗教の排他性が根っ子にありそうだと言う事である。イスラム教圏、イスラム原理主義、ジハードと言う言葉を聞くと、十字軍とか一向一揆と言う宗教が絡んだ歴史上の争いも脳裏によぎる。
 心配なのは、この事件でイスラム教への誤解、延いては宗教全体への不審・疑問が子供たちの脳裏に焼き付けられないかと言う事だ。特に日本では、宗教教育も無いし、そう言う教育の中で育った親達の大多数が現役と言う時代を迎えている。宗教に無関心と言う世代から更に、宗教不審と言う世代に移り変わって行くとしたら、まさに宗教の危機であり、人類の危機でもある。輝かしいと思った21世紀が人類にとって、最大の危機に暗転する可能性もある。にも拘わらず宗教界、宗教者は沈黙を守っているのはどうしてだろうか。
 テロにしても戦争にしても、思想・宗教の違いから起った場合も多い事は確かであるが、テロ・戦争を根絶する力も人間の叡智が生んだ宗教に頼るしかないと思う。決して報復軍事行動では解決しない。
 世界で唯一の被爆国である日本の役割は、アメリカの軍事行動を後方支援する事にあるのではない。自分の生命の大切さを知る事を出発点として、他人の生命の大切さ、地球上で生きとし生きるものの大切さを知ると言う仏教・神道の根本の考え方を世界に訴え、広げて行く責任があると思う。被爆国の日本だからこそ出来る、日本だからこそ説得力がある役割だと思う。
 誰が、何時、どのようにしてと言うと正直、私も今は結論を持っていない。微力を感じるが、微力でもしなければならない事はあるに違いない。


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2001.09.24

歎異鈔の心―第7條―

まえがき:
この條は、念佛を唱える事が、あらゆる障害や危険・苦難等を超越した(問題としない)絶対の無二の生き方である事を述べたものです。絶対自由な境地であるとも述べていますが、決して念佛以外を排除している訳ではないと思います。
恐らくは、日蓮が『念佛無間』(ねんぶつむげん)と、念佛者は無間地獄(這い上がる事が出来ない地獄)に落ちると非難している事に対して、念佛は、あらゆる悪も善をも超えた行為であるから、決して動揺しないで欲しいと言う念佛者へのメッセージだと解釈したい。

本文:
念佛者は、無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんちぎ)も敬伏(きょうふく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり、と。云々。

現代解釈:
念佛を唱えると言うことは、何も障り(さわり)の無い、絶対無二の道を体得することである。
それは何故かと言うと、信心を頂いて念佛を申す人には、天の神も地の神も敬って帰伏し、悪魔も仏教以外の宗教を信仰する者も、邪魔することが出来ないからである。罪悪もその結果としての報いも無いし、いろいろな善根も及ばない行為であるからです。

あとがき:
ここで誤解し易いのであるが、念佛そのものにオールマイティの力があるのではない。『苦しい時の神頼み』と言う表現があるが、『苦しい時の念佛頼み』が役に立つと言う事を言っているのではない。キリスト教のアーメン、神道の柏手も同じ事であるが、信心があっての念佛には、何も恐れるものはないと言う程の絶対的な力があると言う事だと解釈しなければならない。俄か念佛には何も力はないと言うことである。ここを間違うと、オカルト宗教と何も変わらないことになる。
以前解説した般若心経の中に、『無有恐怖(むうくふ)』と言う言葉がある。『仏教の真理、大宇宙の真理を知れば、恐怖が無い、恐いものが無い』と言う事を言っているのであるが、『念佛は無碍の一道なり』と言う事は、『無有恐怖』と同じ事を言っているのである。本当の信仰心をこの身に頂いたら、恐いもの無しなのである。無相庵カレンダーの『天下無敵』も同じ事を表現しているのであるが、この強さは、強い風にびくともしない鉄塔のものではなく、風の強さに応じてなびく竹や柳のしなやかさを差しているのだ。
つまり、信心を得て念佛すれば、この身に世間的な幸せばかりが訪れると言っているのではない。世間的に不遇な事は決して訪れないと言っている訳ではない。親鸞にも長男(善鸞)を勘当しなければならないような不名誉な出来事があった。晩年には妻とも別居しなければならない不幸もあったが、親鸞はそれで愚痴をこぼす人生になったかと言うとそうでは無い。さいごの最後まで、念佛三昧と布教に身を捧げた積極的な人生を送ったのである。これを障りの無い道、無碍の一道と言うのである。


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2001.09.20

淡い期待

淡い期待を抱く事は私達の人生には多い。淡い期待とは『ひょっとしてこう言う事になりはしないか』『ひょっとして、こうなったら時、あの人が助けてくれるのではないか?』と言う希望的観測とでも言うべものである。往々にして期待外れになる場合が多いものとも言える。
青年の頃、異性に対して、『ひょっとして付き合ってくれるかも知れない』・『ひょっとして、私の事を好きなのかも知れない』と言う様な淡い期待を抱いた経験が誰にもあるのではないか。そして破れたほろ苦い想い出もあるだろう。
サラリーマンにおいても、『今年は、ひょっとして昇進出来るかも知れない』・『今年のボーナスは、ひょっとして、他人よりは多く貰えるかも知れない』等と、淡い期待を抱きながら、結果として、赤提灯の屋台で憂さを晴らした事もあるだろう。
親になったらなったで、『ひょっとしたらこの子は、将来大物になるかも知れない』と、ちょっとした言動に淡い期待を寄せるのである。
老いにも淡い期待があるかも知れない。『ひょっとして、私は100歳を超えるまで生きるのかも知れない』と。人は、一生淡い期待を抱きつつ最後の日を迎えるのだろうか。
淡い期待は、文字通り、淡いままで終わるケースが多い訳であるが、それでは淡い期待を抱いてはいけないかと言うと、そう言う訳ではないと思う。
淡い期待があるからこそ、人は生きているのだとも言って過言では無い。『あの人と付き合えば良い事があるかも』と、淡い期待があればこそ、新しい人間関係も生まれる。
又『イチローのように大リーガーになって、有名になりたい』、『一流企業に入って、社長になってうんとお金を稼ぎたい』と、淡い期待があればこそ、人並み以上の努力もするのだと思う。私も幼い時から、母から兄弟姉妹達から『今に芽が出る、この子は大器晩成型よ』と淡い淡い期待と励ましと煽て(おだて)の中で育てられたと記憶している。
信仰においても、いつかは悟りの世界に足を踏み入れる事があるかも知れない、心安らかな生活が出来るのではないかと、淡い期待を抱きつつ仏教の話を聞き、修行もし、念佛してみるのだ。
淡い期待は、人生に積極性をもたらす栄養剤であり、淡い期待を持ち続けられている事は、即ち幸せの真っ最中なのかも知れないと思う。
経営危機にある私の立場では、今あらゆる淡い期待が頼れる期待かどうかを確認している最中である。すべてが文字通り淡い期待にしか過ぎないと分かった時点が、会社最後の日となるだろう。そう思いつつも、未だ数多くある淡い期待に支えられながら、その淡い期待を虱潰し(しらみつぶし)に確認しているのである。


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