No.1230  2012.09.24
それはそれとして

昨日のNHK-BSプレミアム番組『こころの時代』は、昨年金沢市に完成した『鈴木大拙館』で、大拙師が亡くなられる前の15年間秘書役だった岡村(現姓;別宮)美穂子さんと金光寿郎師の対談内容でした。 12年前にも、同じく『こころの時代』で、『鈴木大拙の風光』と云うことで、岡村美穂子さん、上田閑照師と金丸寿郎師の対談がありました(昨日と殆ど内容は同じですので、ご覧いただければと思います)。

今日の表題『それはそれとして』は対談の中で、鈴木大拙師が、離婚を考えている或る夫婦との面談時に、夫婦二人の言い分に耳を傾け聞かれてから、どんなタイミングでのことか分かりませんが、「それはそれと して」と仰ったのを岡村さんが感銘を受けられて、大拙師に色紙にまで書いて貰ったと云う言葉だそうです。

私もこの「それはそれとして」と云う言葉は、禅の言葉ではないと思うのですが、我々が人生を生きる上で、場面にも依りましょうが、壁にぶち当たった時に思い出したい智慧の言葉ではないかと思い、ご紹介す る次第です。

皆さんは皆さんでご自由にお受け取りになられたらいいと思いますが、私は、例えば今、日中間と日韓間で問題になっている領土領海問題にも当て嵌めることが出来るのではないかと思いました。小さな揉め事をキ ッカケに全ての関係を断ち切り軍事紛争に至らせるようなことはせず、本来どうあれば両国共々に利することになるかを大局的に判断して智慧を出し合うようにすることが今は大切ではないかと。

また一方で、仏教に人生の有り方を問うている私たちが、仏法の教えをそのまま日常生活の様々な場面に当て嵌めればいいと云う訳ではないと思います。
『病気の子どもも日本一』と云う本を書かれた小児科医の駒沢勝医師は勿論、病気を治すのをお仕事にされています。「健康でありさえすれば幸せと云うことではない。どんな重篤な病気の患者さんでも、病気にな って良かったと云う方さえ居られる。病気を治すと云う行為は、否定から出発していることである。これは仏さまの絶対的肯定に反することではないか・・・」と云うような仏法的考え方で医療行為に当たられてい る訳がありません。多分、「それはそれとして」、目の前で苦しんでいる小さな子供の患者さんを何とか元通りになるよう励んで居られると思います。

私たちは日常生活において大小様々な問題に常に直面していると思います。そして、案外、殆どの場合に「それはそれとして」と無意識に判断して見過ごしたり、やり過ごしているものと思いますが、数日頭から離 れないような問題に関しても、「それはそれとして」を当て嵌められないか考えてみようではありませんか。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1229  2012.09.20
仏道に二つの道有り

先週の土曜日に大学の同窓会があり、私は44年振りに同級生達と再会した。大学の施設が会場だったので、学生時代の通学経路を約1時間半電車を乗り継ぎながら懐かしさと四十余年の変化を感じながら、最後は大学への長 い坂道を歩いて辿り着いた。しかし、年月は容赦なく私を迎えてくれるはずのアノ大学の表の顔を変えていた。学内に入る手前に、私には最も思い入れ深く、思い出も深い4面のテニスコートが有ったのだが、全く跡形も無く なっており、緑の木々に覆われた人工の小高い丘に代わっていた。

人間は日々の生活ではなかなか変化を感じられないものであるが、数十年単位で見れば、やはり着実に、しかも大きな変化を遂げているものであることを、年老いて訪れた大学を見渡して実感させられた(同窓会に来ていた 同級生達の顔を見て名前を思い出せなかったことは言うまでも無いのであるが・・・)。

同窓会では一人一人マイクで近況等を話すことになっており、私も卒業以来の職歴と現在も未だ現役で仕事をしている事等を話したのであるが、最後に人生を仏教に学んでいることを付け加えてしまった。そのお蔭で、二次会 で仏教を軽視して私に絡んで来た友があった。「仏教なんて一言で言えば、諸行無常だろう!」と。仏教書を読んでいたからこそ言えたことだと思うので、真面目に人生を渡って来られたのだと思う。 「諸行無常と云うのは、常に変化するってことだろう?そんなことは皆分かっていることだ。大したことは無い。」とも・・・。その友とは多少のやり取りはしたが、飲み会の席でもあり、深い話は止めたのであるが、その後 、色々と考えるところがあった。

この世界が諸行無常だと分かったら、何の悩みも無く人生を渡れればいいのであるが、多分大方の人は、それで悩みは解消出来ないはずである。本当は、その疑問を持つ事がスタート時点なのだと思う。諸行無常を学び、縁起 の道理を聞き、成程と思って生活の場に立ち戻って見る。そして諸行無常、縁起の道理を自分に言い聞かせる。しかし心が落ち着かない。そこが仏道のスタートラインではないかと思うのである。

諸行無常だと頭で分かっていても、納得出来ないのは自らの煩悩の所為だと思い、煩悩を無くそうと坐禅したり、滝に打たれたり、更に法話を聴いたり、仏教書を何冊と読んでもみる。果ては出家して、お坊さんの修行をする。 これが聖道門と言われる仏道だと思う。自力道とも難行道とも言われる(他力道の人々がそう称するだけであるが・・・)この道に進んで、いわゆる悟りに至る人達も居られる。

しかし一方、親鸞聖人の様に、厳しい自力聖道門の仏道で20年も修行しながら、どうしても安心が得られず、浄土門に道を求める人々も居る。この道は他力道とも易行道とも言われるが、この道で悟りに至る人々も居る。

仏道は上述の二つの道に分かれることは間違いない。私は親鸞聖人の様に聖道門の修行をしたことがないし、今は親鸞仏法に傾倒しているけれども悟りを実感したことが無いので、仏道としてどちらが正しいとも、どちらも正 しいとも言う資格は私には無いと思っている。

けれども、私が存じ上げている聖道門の代表格である禅宗の高僧と称せられていたお坊さんのお話から推察するに、「修行を重ねて終には煩悩を消し去って悟りを開きました!」と云うことではなく、「人間には分からない何 か大きな様々な働きに依って自分は生かされて生きているのだ、と云うことに気が付かされた」と云うお話だった事を思い出す。

「生身の人間が生きている限り、自己中心の想い(エゴ)を完璧に拭い去ることは出来ない」ことを否定出来ないので、私はやはり親鸞聖人の歩まれた道を信じて行きたいと思う。 親鸞仏法は、「生活の場で、諸行無常の世界だとはどうしても割り切れないこの自己中心の罪悪深重・煩悩熾盛の私を救おうと云う阿弥陀仏の本願にお任せするより他には手立てがありません」と云うのが最終ゴールであり、 また、それがそのままスタート地点でもあるのだと思っている。

世間的には仏道には自力難行道と他力易行道の二つの道があると言われているけれども、どちらも「自分とは何か?」を課題として研鑽するものであって、「諸行無常は誰でも分かっていることだ!」と評論してしまう道ではな く、仏道が自分を問題にしない道であってはならないと私は思うのであるが・・・

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1228  2012.09.18
胎児の世界―人類の生命記憶

表題は、JT生命誌の研究館の中村桂子館長が常に手元に置かれて見返し読み返しされている本の名前である。三木成夫(みきしげお;1925年~1987年)と云う東大の解剖学教室出身の医学博士の著書である。
未だ読み始めたところであるが、今俄かに大きな問題になっている尖閣諸島を巡る中国各地で日本企業、日系企業の建物をデモ隊の群集が襲う暴動報道を見ていて、この『胎児の世界』の中で三木博士が 語られている調査データーがフト思い浮かんだ。
日本人の中にも暴徒化するとあのような行動を取る人々も少なからず居るのは間違いないが、私だけの感覚かも知れないが、全世界の人々が見る映像となることは分かっている時、日本人は少し躊躇する、遠慮す るのではないかと・・・。
中国人達の立ち居振る舞いに遠慮の欠片(かけら)も無いと感じたのである。だから人種が違うのではないかと・・・。アジア大陸から日本列島が分かれるに伴って、日本列島側に住んでいた祖先が日本人の祖先ではないかと 、私は思っていたのであるが、ひょっとしたら違うのかも知れないと・・・。、

三木博士は、日本人の脳の形が、海を隔てて直ぐ隣国の中国人及び韓国人よりも、海を大きく隔てているポリネシア(ハワイ、サモア、タヒチ島、トンガ、ツバル、ニュージーランドなどの諸島)の人々との方が近く 、中国人と韓国人は、むしろアメリカやヨーロッパに近いと云うのである。また、血液型(A、B、AB、O)の分布割合に関しては、日本人のそれはアジア型ではなく、中東と東ヨーロッパの人々と一致するデ ーターとなったと云うのである。

三木博士は、椰子の実の中の水を飲んだ時に懐かしい味を感じたことと、絹の道を通って日本にやって来た正倉院御物に感じる懐かしさから、私たち日本人は、歴史上中国人と韓国人とは決して同人種とは言えな いのではないかと考えられていたようである。

真実は分からないが、以前〝いのち〟旅で勉強した『超大陸パンゲア』が2億年から2億数千万年かけて、今の5大陸に分かれて来た分かれ方 を想像すると、三木博士の考察も、あながち否定しきれないと思う。今も、世界各地で地震を伴って、大陸が変化している。数千万年単位で地球の歴史を考えるなら、現代人の我々が想像し得ない紆余曲折の変化があったと 考える方がむしろ正しいのではないか思う。三木博士は科学者であるが、人間の感覚も重要視されていたようである。懐かしさはその一つの感覚である。

胎児が母親とへその緒で結ばれていて、母親の血が胎児の体を廻るから胎児は成長するのであるが、出産直後には、不思議にも母親の乳房が張り、血がそのままの栄養素を失わず、変化したお乳を何の迷いもなく 赤ちゃんがむしゃぶりつく現実を思う時、感覚を頼りに生命の営みが支配されているのかも知れないと思った次第である。

そんなことを考える時、感覚としてであるが、仏教関係の祖師との相性を思った。私は親鸞聖人が七高僧として挙げておられる中国の先師達には何故か懐かしさを覚えない。特に情報が多い善導大師に懐かしさを 感じられない。不思議とインドのお釈迦様に懐かしさを覚える(そのように紹介されているからかも知れないが・・・)。

人間を動かすのは、理性ではなく情であると断言している人も居る。人生を考える時、科学的分析、理性的分析も必要ではあるが、情感も忘れてはならないと思う。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1227  2012.09.13
無相庵カレンダーお言葉の受け取り方

無相庵カレンダー、三日のお言葉として、甲斐和里子女史の歌を揚げています。

        岩もあり、木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るゝ

 私が書いた25年前の解説は、苦難の人生を乗り越えて行く理想の生き方として書いておりますが、今では、少し違うかな?と思うようになりました。当時、中間管理職のサラリーマンだった私は、自分の思うよう にならないサラリーマン生活に苦悩しており、この歌を詠まれた甲斐和里子女史のように淡々と生きて行けるようにならねばならないと言い聞かせていたようにと思われます。

甲斐和里子女史がどのようなお気持ちで詠まれたかを今は確かめることは出来ませんが、水と自分を比較して、自分の今が水のようにさらさらと流れていないことに気付かれ、淡々と生きられぬご自分を悲しんで詠 まれたのかも知れないと思うようになりました。

また、無相庵カレンダー、15日のお言葉に、白井成允先生のお歌があります。

        いつの日に 死なんもよしや 弥陀仏の み光りの中の 御命(おんいのち)なり

この歌の解説も、今では少し違うのではないかと思うようになりました。やはり25年前の当時の私は白井成允先生が親鸞仏法に依って、いつ死んでもいい心境になられた事を詠って居られると思って解説していたと思うのですが、そうではなくて、 親鸞仏法に依って、親鸞聖人と同じく罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫を心底自覚為された時、こんな愚かしい自分でも今こうして生かされている、仏様のみ光りの中に生かされている御命(おんいのち)と云う懺悔と救われた喜びを詠われた のではないかと・・・。

 仏法の教えを詠った歌は、人生の生き方の理想を詠ったものとして、そしてそれを目指して生きて行く指針としてもいいとは思いますが、努力しても努力を重ねても、どうしてもそのようにはならない自分を映し出す 鏡として捉えるのが親鸞聖人のお心に適うのではないかと思うようになりました。それは、親鸞聖人のお詠みになられた和讃や『教行信証』等に書き遺されているお言葉からそう思うのであります。

たとえば、親鸞聖人はご自分の状況を悲しんで直接的にその悲しみを愚禿悲歎述懐和讃に詠わています。

                浄土真宗に帰すれども
                 真実の心はありがたし
                  虚仮不実の我が身にて
                   清浄の心もさらになし

                悪性さらにやめがたく
                 こころは蛇蝎のごとくなり
                  修善も雑毒なるゆえに
                   虚仮の行とぞなづけたる

                無慚無愧のこの身にて
                 まことのこころはなけれども
                  弥陀の回向の御名なれば
                   功徳は十方にみちたまう

また、更には主著『教行信証』に、

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを。恥づべし、傷むべし。(「教行信証」)
<現代語訳>「悲しいことですが、愚かな親鸞は、愛情欲望の広海に溺れ沈み、名誉や利得の大きな山道に迷い惑い、信心を得て正定聚の仲間に入ることを喜ばず、真実の証(さとり)に近づくことを楽しまない。まことに恥ずかしく、傷ましいことです。」

と詠われています。

無相庵カレンダーの他のお言葉に付きましても、生き方或いは人生観の理想の有り方と捉えるだけでなく、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫である我が身を映し出してくれる鏡としたいものであると反省を込めて思う次第であります。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1226  2012.09.10
親鸞仏法の救いとは?―完

私は以前のコラム『続―親鸞仏法の救いとは?』の末尾で、「煩悩だけを問題にしている限りは、暗い闇夜の中を念仏を称えながら彷徨(さまよ)う人生に終わってしまいます。それは実に残念な人生です。 残念な親鸞仏法に終わってしまいます。」と結論的に申し上げました。これは、親鸞仏法の救いが、『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』を自覚することを以ってして〝救われた〟ことにはならないと云う事を強 調したかったからです。

しかし、救われる前提として、『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』を自覚することを外せないことも付け加えねば、一般の方々に親鸞仏法の救いが誤解されはしないかと考え直しました。
その上で今回のコラムで『親鸞仏法の救いとは?』を一応締め括らせて頂きます。

そう考え直すに至りましたのは、今読んでいる数冊の本の中に、『健康であれば幸せか』と云う小児科医師〝駒沢勝〟先生の小冊子があり、慚愧なくして救われた喜びは無いことを分かり易く、表現されて いる箇所があり、これを無相庵読者の皆様にお知らせしておかねばならないと思ったからです。以下に転載させて頂きます。

転載―

苦しみ、哀しみ、悩みは、仏がすでにOKだと受け入れ済みのものを、自分が受け入れないところに成立している。仏と同じように肯定し、受け入れれば、悩みや悲しみは発生しない。つまり悩み、苦しみ は、仏への反発、反逆である。仏教では、この反発のことを、破法とか、謗法罪(ぼうほうざい)と言っている。道徳的罪のことではない。物事に優劣を幻想するところからくる一切の誤りのことである。 道徳的罪を超えた、人が人とし生きるとき必然的に犯す絶対的悪のことである。この罪があるゆえに地獄必定の身であり、凡愚である。この謗法の罪を犯した私がそっくり許されていると感じるのである。 そこが喜びであり、救いである。

この謗法罪の意識こそ慚愧である。だから慚愧は人であるための条件である。人とは救われ得るものという意味である。
反対に、自分が何かよいことを行なっているという意識のところには、許され、受け入れられているという実感は現れない。罪の意識から許しを請うてこそ、許しが嬉しいのである。何々してあげた、何々 してやると自惚(うぬぼ)れているところには、許しは感じられない。だから、無慚愧は畜生だと言われるのである。畜生とは、救いの喜びを味わうことのできない者という意味である。ここが、親鸞聖人 の言われる悪人正機説の根拠だと思う。

                善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

したがって、罪を深く感じる者には、それだけ許しの喜び、救いは大きく、罪意識の少ない者には喜びはその程度しかない。罪意識の大きさ、つまり苦しみの大きさによって、救いの大きさもきまる。

             罪障功徳の体となる
                こおりとみずのごとくにて
                こおりおおきにみずおおし
                さわりおおきに徳おおし

この身が地獄必定の身であるがゆえに、救いは最上である。低下の凡愚であるゆえに無限の喜びがある。最初に述べたように、人類を破滅に導くような医にたずさわっているゆえに、この上なく有難く感じるのである。
あゝ、なんという阿弥陀仏の周到な心くばりだ。地獄必定、低下の凡愚、人類の破滅がすべて、この私を救うための必要条件であったとは。私の悪性は私が救われるための必要条件であったとは。仏はすべて の条件を整えて、私一人をめがけて、救いの手を差しのべて下さっていた。

                弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
                されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめし
                たちける本願のかたじけなさよ。

嬉しいではないか、このひどい身が、すっかり許されている。それどころか、許され、弥陀に抱かれていながら、私はまだ反発し続けている。私には仏に反発する自由が与えられている。悩む自由、悲しむ 自由が与えられている。この自由がまた嬉しいのである。この喜びを感じるところが浄土である。浄土は今、ここにある。

―転載終わり

私は救われようと思って親鸞仏法に学んでいる。しかしどうしても、救われると云うことは仕事が成功し、生活が経済的に少しでも余裕が出ることとか、社会的地位が上がることだと云う考えから離れられませ ん。残念ながらどうしても・・・です。どうしても、「自分の思うとおりにしたい」「自分さえよければいい」「自分以外のものは、みな自分の為に尽くすべきだ」と云う自己中心の想いを払拭できません。 他人中心の考え方で生きようと考えているようではあるが、いざとなると自己中心だったと振り返らざるを得ません。

「でも、今、許されている証拠に、私は生きている。世の中の全てが私を生かしてくれている。生かされている。仕事がある。家族がある。住む家がある。」と云う今があることを以って、許されている、 救われているのだと云う喜びを駒沢勝先生は仰っておられるのだと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1225  2012.09.06
続―親鸞仏法の救いとは(他力について)

「他力本願では駄目だ」と言って、浄土真宗側から批判を受ける政治家がチョクチョク出て来ます。その都度、浄土真宗側からのクレームがマスコミで取り上げられたり、政治家の役職辞任にまで至ったこともあるようですが、 『他力』にしましても、『本願』にしましても、なかなか一般の人々に理解して貰える簡単明瞭な表現は見当たらないと云うのが実情です。

今回は、『他力』に付いて考察したい思います。
『他力』を書いた五木寛之さんの説明に対しまして或る人が「作家の五木寛之氏は著書『他力』の中で、他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が自分の生き方を支えているという考え方なのです。 とか、他力とは目 に見えない大きな宇宙の力と言ってもよく、大きなエネルギーが見えない風のように流れていると感じるのです。のように書いています。しかし、これでは他人の力も天候も「他力」になってしまいますので大変な誤解です。 仏教では「他力」以外の力はすべて「自力」ですので、宇宙の力も他人の力も「他力」と言ってはいけないのです」と批判しています。
この人は、他力とは阿弥陀如来の力のみを申すものですと断言されていますが、では、阿弥陀如来の力とは何かが一般の方々には分からないと思うのです。

でも、「他力とはどんな力ですか?」と聞かれれば、親鸞仏法を信じている者としては、答えられないと云う訳には参りません。
そこで私は即答するならば、どう答えるべきかと考えた挙句に、「他力とは無数に働く縁のこと」と云う答えに行き着きました。縁は無数の条件のことですから、ダブった表現になりますが、敢えて「他力とは無数に働らく縁の こと」と申し上げたいと思います。考えてみますと、これはお釈迦様の『縁起の道理』すなわち「縁に依って起こる」を言い換えたものになったことに気付きます。
他力本願では駄目だと云う世間での考え方は、「他人の力を当てにしては駄目だ、自分の力で何とかしようと努力せよ!」と云うことだと思いますが、仏教では「何事も他力に依るのであって、自分の力だけで為し遂げられるも のではない」と考えます。ただ、誤解があってはいけませんので付け加えますと、自分は何もしなくてもよいと云うことではありません。自分がこうしたいと思うことがなければ物事は進みませんが、自分の思う通りには進 まないけれども、他の無数の縁が整って物事は進むのだと云う真理を言っているのです。

私たちは無数の縁が重なって、今この現在があります。読者の方々も一度ご自分の現在と過去の色々な出来事の関連を詳細に訪ねて頂ければ、過去の一切が現在に繋がっていることが実感されるはずであります。そして、無数の 縁に依って現在があるなぁー、他力だなぁーと思われるはずであります。

たとえば私の場合、今この無相庵コラムを書いている現在と過去の関係を抜粋して申し述べますと、先ずは私が中学の部活にテニスを選んだことが深く関係しています。しかしそのテニスを選んだのは、兄が既にテニス部に所属 していたこともありますが、それは今から100年前、私の母が学生の時に島根県の片田舎で、当時としては珍しいテニスをしていたことが出発点のようです。そして私が中学に入学して部活にテニスを選んだのは、私は背が低 くて(138cmでした)、私が最も自信があって希望した野球では大成はしないと周りから説得されたからでした。テニスを選んだことは、8年後には大学で留年することに繋がります(講義をサボりテニス漬けの毎日を送り ましたから)。留年したことに依って、就職先(チッソ株式会社)が決まることになりました。何故かと申しますと、もし留年せずにまともに卒業していたならば、チッソ株式会社はその年不景気で新卒を募集していなかったか らです。そして就職したチッソの熊本県水俣市の工場に配属されたことが縁となり、水俣病問題が関連して、私は東京大学に留学することになり、その留学が縁となって、チッソを退職し出身の大阪大学の研究室に戻り、その後 神戸の企業バンドー化学に就職しました。そして20年勤務した後に大阪大学の後輩との縁で、脱サラ起業致しました。もし中学でテニスを部活に選んでいなければ、脱サラ起業しなかったかも知れません。私が脱サラ起業した のは、後から知ったのですが、丁度バブルが弾けた時でしたので、取引先の企業が海外に工場を移す日本の製造業の空洞化時代と言われる時で、起業して10年目に殆どの仕事を失い、従業員を解雇し工場を閉鎖しましたし、ど ん底を味わいました。その時に人生で初めて真剣に仏法を求め出しました。無相庵コラム連載に力を入れ出したのはその頃であります。

現在に至る過去の縁を書きましたが、そもそも私が男に生れたのは私の意思ではなく、他力と云う縁ですから、縁を書き綴りますと本当は何百ページ、何千ページを使っても書き切れない無数の縁があることは、ご理解いただけ ると思います。

ただ、全ては他力でありますが、確かに自分が自分の意思で人生の節目節目で道を選択していることも間違いありません。でも、その選んだ道が自分の描いた通りの道になった事は有りません。私の妻は熊本県水俣市生まれです が、結婚する直前まで神戸生まれの私が遠く離れた水俣の人と結婚するなんてことは想像したことも有りませんでした。そして、子供が出来、今は孫が5人も居ます。自分の意思では有りません。結果としては、全ては無数の縁 (他力)に依って、今日の私が有ると実感せざるを得ないのです。

以上のように考察致しますと、他力本願では駄目だと云う人は、人生は自分の頑張りで何とかなると過信している人で、人生の真実に未だ出会えていない人だと思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1224  2012.09.03
続ー親鸞仏法の救いとは?

前コラムで、親鸞仏法の道はただ念仏しさえすればいいと云うものではなく、「自分とは何か?」「〝いのち〟とは何か?」「人間とは何か?」の答えを求め続けるところにあり、 親鸞仏法で救われたと自覚出来る心境があるとすれば、「自分は自分であって良かった!」「人間に生れてよかった!」と思える瞬間が日々の生活の中に有ると云うことではないか と思います。

「自分というかけがえのない絶対的ないのち、顔かたちが違うように、人それぞれ生きる道が違うのです。あたえられた道をすなおに引き受けて生きることが人間として価値があり、 立派に生きるあかしになるのです」と、吉村かほるさん(障害児二児を抱えられながら親鸞仏法に出遇われた)が確信されていることは、私たちに取りましての有難い道標だと私は 思っております。

時として、親鸞聖人がご自分を『罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫』と自覚されていた事を以ってして、私たちは自分の煩悩にのみ捉われてしまって道を踏み迷ってしまいがちになります。 確かに人間故に他の動物が持っていない煩悩(自我・エゴ)を生まれつき持たされていると思いますが、その煩悩だけではなくて、私たちには実に多くの素質と体質を埋め込まれて、 この世に生れているのではないでしょうか。

今の〝いのち〟は生まれつき恵まれた素質と体質に依って支えられているにも関わらず、「自分の思う通りにしたい」「自分さえよければいい」「自分一人しかいない(自分以外のも のは、皆自分にサービスすべきものだ)」と云う実に身勝手な煩悩に支配されている故に、多くの恵みを忘れてしまっているところに、不平、不満、不安、不信の人生に甘んじてしま う問題の本質があるのだと思います。

煩悩だけを問題にしている限りは、暗い闇夜をの中を念仏を称えながら彷徨(さまよ)う人生に終わってしまいます。それは実に残念な人生です。親鸞仏法を誤解したまま人生を終わってし まいます。今法話コーナーに連載中の吉村かほるさんの親鸞仏法の実体験記とも云うべき米沢先生の法話を是非熟読されまして、本当の親鸞聖人に出遇われる事を願っております。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1223  2012.08.30
親鸞仏法の救いとは?

「救いを求めて宗教の門を叩く」と申すことがありますが、一体〝救い〟とは何かと云うことをはっきりしたいと思います。ひょっとして、お金に困っていたけれど運よく金回りがよくなったこととか、 病気が治ったとかを〝救われること〟と考えてはいないでしょうか。どうなることが救われることかを先ずははっきりしたいものです。

お医者さんだった米沢先生が、「新興宗教で病気が治ると宣伝しているのを批判する人が居るが、新興宗教で病気は治るんです。病気は人間の自然治癒力に依って治るのであるから、新興宗教に入信し て病気は治ると安心すると自然治癒力が増して、実際に病気は治ることがある。けれども、新興宗教で、腹が立つこととか、あれも欲しいこれも欲しいと云う何でも欲しいと云う心は治らない」と云う ことを仰っていました。

でも、新興宗教で治らない〝何でも欲しい心〟や〝自分の思い通りにならなくて腹が立つ心〟は親鸞仏法で治るか、無くなるかと聞けば、治らないし無くならない、と、米沢先生も親鸞さんもお答えに なられることでしょう。でも、米沢先生も親鸞さんも、救われた方であることは間違いありません。それはどう云うことでしょうか・・・。

親鸞仏法が考える〝救われる〟とは(救われていない私が言うのは如何かと思いますが)、「私は人間に生れて良かった!私が私に生れて良かった!」と生まれ甲斐と生き甲斐を感じられた今の瞬間を 〝救われた〟と言うのだと思います。

さて、無相庵読者の〝あなた〟は、「人間に生れて良かったと思っていますか?これまで思われたことがありますか?」と問われれば、どうお答えになりますでしょうか・・・・。

今、日本の政界は権力争いの真っ只中です。昔なら、刀を持って切り合い、殺し合いをしていたのを現代の今は言葉で殺し合いをして、権力を持ち続けようとしたり、奪い取ろうとしたりしているだけ であります。実に愚かな争いであり、サル社会のボスの座争いと少しも変わりません。人間にも勿論闘争本能が有りますが、それと共に他の動物には無い考える力である知性・知力、想像力を与えられ ており、更には難局を切り開く創造力も与えられています。そして、それらが有効に働く為の言葉を与えられ、意思疎通能力が与えられています。そんな有り余る能力を与えられながら、それら恵まれ た一切を忘れ、日本の危機さえも忘れて権力争いをしている政治家達には、恐らく、「人間に生れて良かった!」、「自分は政治家になった自分で本当に良かった!」と云う生まれ甲斐も生き甲斐も全 く感じていないと私は思います。

政治家を批判致しましたが、他人事では有りません。私たちも自分自身の現状をつぶさに分析して見ますと、欲しいものを求めて仕事してお金を稼ぎ、他人と競争し、食べて寝て起きて、また仕事をし て、他の動物と変わらない生活をしているのではないかと思います。パソコンを使って情報を取り、携帯電話でメールをし合うのを高等な人間の生活と勘違いしていると致しましたら、永遠に救われる 日は来ないのではないかと思います。

「自分とは何か?」「〝いのち〟とは何か?」「人間とは何か?」の答えを見付けるために、90歳で亡くなられるまでその答えを求め続けられた親鸞さんは、動物とは全く次元の異なる人間としての 人生を満喫されたのだと私は思っています。
そして、そう云うご自分の〝いのち〟に対する感謝と慶びの言葉こそが『なむあみだぶつ』だったと私は思います。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1222  2012.08.27
親鸞仏法は決して難しくない?

日本にはお寺が多いですし、各家庭の法事を務める為に、忙しそうに軽自動車を乗り回しているお坊さんを新興住宅地では多く見掛けます。浄土真宗のお寺で催される年に一回の報恩講やその他行事にも結構多く の門信徒が参集しています。

でも、浄土真宗では昔から、親鸞仏法で本当に救われる人は、〝国に一人郡に一人〟と言われていますから、お寺に集まる人は多いだろうけれども、親鸞さんと同じように仏法で救われている人は殆ど居ないと云う ことでありましょう。ですから、仏教徒のような顔をしてお寺参りしているけれども、外見は仏教徒であるけれど内面は、つまり心の中身は仏法で救われていないと云うことなのでしょう。 また、何故かそれを売り物にしているお坊さんが多いのです。『易行難信(いぎょうなんしん;難行苦行は必要が無く念仏を称えるだけだから、た易い行ではあるが、信じることは難しい)』をキャッチフレーズ にしているお坊さんが多いです。そして、一般の人に馴染みの無い言葉を使って、いよいよ分からなくしているように思えてなりません。確かに親鸞聖人も「難中の難」と言われていますが、信じること、救われ ることが難しいと言われているのではないと私は思います。煩悩を無くすことは〝難中の難〟でありましょうが、一つの壁を乗り超えれば、それこそ(大乗仏教ですから)誰でも沢山の人々が共に救われる難しくない 教えだと思います。

私自身、未だ救われたと云う自覚はありません。そんな瞬間や日が来るのかなとも思っています。ただ、一つこれがネック或いはキーワードだなと思うことがあります。それは、親鸞聖人が仰られたと云う『罪福信』です。また 難しい言葉を使いましたが、迷信のことだそうです。無相庵に来られている方は、「自分は迷信なんて信じていない。」と反論されるかも知れませんので、親鸞仏法の継承者である明治時代に活躍された清沢満之(きよさわまんし) 師の言葉を、ご一緒に噛み締めたいと思います。

                世人は、狐や天狗を崇拝するものを指して迷信というが、
                            これは 左程笑うべきでない。
                   笑っているもの自身も、金や物を崇拝したり、
                            地位や名誉を崇拝しているではないか。
                                    他を笑う資格はない。

私は勿論狐や天狗を崇拝していないですし、元旦に神社にお参りして、その年の安全・健康・幸運を日本の神様にお願い致しません。金や物をこれさえあればと崇拝はしていませんし、地位や名誉を絶対視して崇 拝はしていません。
でも、よくよく考えますと、崇拝はしていない積りですが、殆ど終日頭の中を占領しているのは、結局はお金と名誉を如何にして勝ち取るかと云うことではないのかと、うなだれるしかないのが私の正体であるこ とに気付かされます。
ですから、清沢満之師が「他を笑う資格はない」と結ばれている言葉が重く響きます。

そして、結局は、この罪福信の根っこにある『自我』、米沢先生流に言いますと、「自分の思う通りにしたい」「自分さえよければいい」「自分一人しかいない(自分以外のものは、皆自分にサービスすべきもの だ)」と云う実に身勝手な自分の心の奥底に〝デ~ン〟と構えているエゴイズムに行き当たるしかないのだと思います。

ただ、一つの救いは、清沢満之師自身も他を笑う資格は無いと思われていることです。そして、清沢満之師も、米沢秀雄師も尊敬して止まない親鸞聖人自身が主著『教行信証』の中で、「名誉とお金に振り回され ている情けない私だなぁー」とご自分を悲しまれ嘆かれていることであります。
さて、と云う事になりますと、親鸞仏法で救われるには、先ず罪福信を無くすと云うことでは無さそうであります。自我を失くせと云うことではないようです。

でも、自我或いは煩悩を無くさないままで救われるとは一体どういうことでしょうか?親鸞さんがご自分のことを「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」と宣言されたのは、ご自分が救われる前ではありません。私たちを 苦悩させる自我や煩悩を無くさないままで救われる道筋はどうなっているのでしょうか?

次回、更に考察したいと思います。
なお、法話コーナーを更新致しました。米沢先生の『人間に救いはあるか』と云うご法話です。2009年3月のコラムNo.878『大きな手のな かで 』は同名の本をご紹介しておりますが、その主人公、小頭症と云う難病を持って生まれた二人のお子さんを持つ一人のお母さんが苦悩から救われるまでの米沢先生との文通記録を転載されものです。それ を米沢先生が、親鸞仏法で救われた人の例として医学の臨床講義的に法話とされたものでございます。
今回と次回のコラムと合わせてお読み頂けましたら、きっと親鸞仏法を理解して頂け、頷いて頂けるものと存じます。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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No.1221  2012.08.23
日本が抱える二つのイジメ問題

日本は今二つのイジメ問題を抱えている。一つは、イジメが原因で自殺する中高生が相次いでいる問題と、日本自体(日本政府と云うべきかも知れない)が領土の外交交渉でイジメられている問題である。 どちらも「こうすれば良い!」と云う解決できる道筋は見付かっていない。

二つのイジメと言ったが、二つだけでは無い。家庭内でも、ご近所同士でも、職場でも、イジメに悩み、人生に行き詰っている人は多いのではないかと思うし、今いじめに遭遇していなくても、誰にも起こり得る問題だと考えたい。
問題はイジメられた者を親身になって助けてくれるいわゆる〝駆け込み寺〟が無いことである。イジメられた子供たちには親が居り、先生(学校)が居り、教育委員会があり、最後の最後は警察があると言いたいと ころであるが、警察は事件になっていない相談には乗ってくれないし、そもそもイジメられたとはなかなか訴えにくものだし、訴えたら逆にイジメが酷くなる心配を払拭できない状況にある。北方領土、竹島、尖閣諸島に不法占拠・不法 上陸されて揺さぶられる日本だってそうだ。親に相当する同盟国のアメリカも色々な事情からなかなか動いてくれないし、核保有大国である5ヶ国の常任理事国同士の利害が一致しない国連も国内紛争や領土問題に関して仲裁に入ってく れる組織体にはなっていない。

「イジメられるのはイジメられやすい態度に問題があるのだ。毅然として、強気に出ればいいのだ」と第三者は言うが、強気に出れるなら、イジメられていない。
私も中学三年生の時、テニス部でシカト(無視)イジメに遭った。県大会で準優勝し全校生の前で表彰されると言う私の栄誉に対する或る一人の妬みが主導したイジメだと思ったが、兎に角毎日が憂鬱になった。考え た挙句、テニス部の指導教官に申し出て退部した。イジメを理由に出来るはずがなく、中学生なりに理由を考え、成績が落ちたから希望する県立高校に進学できるように勉強を頑張りたいと・・・。県のトッププレーヤーが退部すると云うの は、何か異常な背景があると思うべきであるが、「なかなか感心な奴やなぁー」とすんなり認められたのだった。私の場合は部活を辞めれば済んだが、もしこれが学級ならば、学級を辞められないから不登校にならざるを得ないだろう。

一方、日本の場合は国土を何処かに移動させる訳にはゆかないし、イジメられるままでは、最後には国土そのものを失い流浪の民になってしまうので何とかしなければならない。
イジメられた子にも、日本にも一つベストではないがベターな方法がある。腕っぷしの強い用心棒と仲良くすることである。それにはヤクザに支払う〝みかじめ料〟的な負担・犠牲は必要であるが、当面の苦しみ・厄介からは逃れられる。 日本の場合は、アメリカが頼りである。もし今、日米同盟が無く、日本にアメリカの基地が無かったら、尖閣諸島は竹島や北方領土と同様に武力で占領されてしまうことは間違いない。従って日本は、アメリカの軍事力がアップするらしい オスプレー配備に反対するような愚かなことが出来る状況にはない。ロシアも、韓国も、中国も、日本国民がオスプレー配備反対していることを横目で見ながらホクソ笑んでいることは容易に想像出来るではないか。

アメリカを頼るのはイジメが止む一つの有効な方法であるが、日本の尊厳(アイデンティティー)はどうなるかである。イジメられっぱなしにしておくのも、そこには日本の尊厳は無いだろう。日本の尊厳を多少とも思う国民が、 強気な外交を望んでいるのだとは思うが、其処にも実は日本の尊厳は無いのではないか。尊厳は自分が意識して表面的に造り出せるものではない。尊厳は相手が感じざるを得ない風格のようなものだと思う。

今回の李明博大統領が日韓で問題となっている竹島に敢えて上陸したことに対して、日本としては韓国が困るような何らかの経済的対抗措置等を取ることを当然とする見方がある。それも日本の意思表示として必要かも知れないが、 後進国でもやることであり、日本の尊厳は見当たらない。日本らしさは見当たらない。NHKが今回の北方領土、竹島、尖閣の領土問題に関する日本政府の対応に関して、街頭アンケートを取っていたが、もっと厳しい対 応を取るべきだと言う意見に賛成した人が8割以上だった事を伝えていたが、日本人の尊厳を失ってしまっている証拠ではないかと思った。

多分、日本人は人間の尊厳をも失ってしまったと云うことだと思う。否、反対かも知れない。人間の尊厳を失ったから、日本国としての尊厳も失なったのだろうと思う。
人間の尊厳とは他の動物と何が違うかと云うことである。人間の尊厳とは、結局は自我と真実の自己の関係に関することである。学校内のイジメも、国同士の領土の奪い合いも、其処(人間の尊厳)に立ち戻る冷静さと 智慧と勇気・決断失くしては永遠に解決しない問題だと思う。人間の尊厳に立ち戻った上で、現実的には、日本の尊厳を守る為に、自国を守る為に今の日本が出来得る限りの知恵を絞るべきだと思う。

有名なアニメの中に「日本人の心情は察しと思いやり」と云う言葉があるそうだが、本当の察しと思いやりはエゴイズム(自分の思い通り自分さえ良ければいいと言う自我)からは出て来ない。日本人だけではなく、他の動物には無い 人間固有の心情だと思う。それを道元禅師は、吾我(自我)に対して自己(本来の自己)と称された。日本人が失って久しい人間としての尊厳を取り戻すことでしか、日本に明るい将来は無い。

帰命尽十方無碍光如来ーなむあみだぶつ


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